天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。
天文19年(1550)11月21日は将軍足利義藤(義輝)が京で三好長慶と戦い近江堅田へ逃れた日。将軍家、細川氏、細川氏家臣の三好氏の三家の中で敵味方入れ替わり争っていた。義藤は父義晴と細川晴元に伴われ京を脱出し近江へ逃れていた。東山に城を築くなど京奪還を図ったが三好勢に敗れた。
元亀3年(1572)10月20日は将軍足利義晴の侍医だった吉田宗桂が亡くなった日。1539年には明に渡り医術を学び、1547年に再び明に渡った際には皇帝世宗に薬を献じ明でも有名となった。長男は豪商として知られる角倉了以であり、医業を継いだ次男宗恂は豊臣秀次や徳川家康にも近仕した。
大永四年、三月六日、足利義晴が細川尹賢邸に御成。 そこで公家、御供衆らに玉阿弥が茶を点じ、給仕を千阿弥が行ったとある。因みに千阿弥はこの頃既に相当な高齢であったと思われます。 千阿弥が利休の祖父ではない証ですね。
天文3年(1534)9月3日は近江に逃れていた第12代将軍足利義晴が7年ぶりに入京し建仁寺に入った日。後ろ盾の細川高国が細川晴元勢に敗れて近江に逃れて以来。晴元は堺公方を擁立するも内紛により義晴と和睦したため帰京が実現した。この後も義晴は細川氏の内紛で何度も京から離れることに。
天文3年(1534)9月3日は近江に逃れていた将軍足利義晴が7年ぶりに入京し建仁寺に入った日。足利将軍って義満など一部除き不安定ですね。争いに巻き込まれ京を追われるだけならまだしも殺されてしまった将軍も。肩書きだけではなく実力も伴ってなければ人はついて来てくれないものですね。