東大赤門は、歴史的経緯からすれば、寺院ではないため、「結界」を意識する必要がないように思えますが、私の宗教論では、宗教施設であろうがなかろうが、しきたりや倫理や格を考慮すれば、やはり、外部の俗なる世界と内部の聖なる世界のけじめの「結界的表示」は、必要なように思え、通過の度、意識。