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名君 大友 義長

9か月前

〝戦国中国武将総選挙〟結果発表!

本能寺の変 1582 光秀という男 6 117 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

■【より道‐89】戦乱の世に至るまでの日本史_西の京「大内文化」

■【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」

【つの版】度量衡比較・貨幣68

■【より道‐114】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「船岡山合戦」

戦国その1 中国地方の雄。覇者:大内義興、大内義隆の家臣団

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■【より道‐12】長谷部元信

雑記:西の京山口

2年前

【小説こぼれ噺】寧波の乱

★歴史情報サマリーβ版★(0095)

3年前

中国・四国地方の石造物⑩:凌雲寺跡宝篋印塔(伝・大内義興の墓)

5年前

大河ドラマの毛利元就って、義興と経久の話はよく聞くんだけど義隆や晴久や肝心の元就の話はあんまり聞かないような気がする。気のせいだろうか。とりあえず動画でちょっとだけ見たけど確かに義興には謎の迫力がある。

10か月前

永禄12年(1569)10月12日は大内輝弘が大内家再興のため大友氏の兵を率い山口に侵入した日。父高弘が伯父義興へ謀反し大友氏のもとへ亡命していた。北九州で大友軍と対峙していた毛利軍が引き返し25日に輝弘が自害して鎮圧。大内氏は名実共に滅亡し毛利氏は北九州から撤退するきっかけに。

明応4年(1495)9月18日は応仁の乱で西軍主力だった大内政弘が死去した日。直前の8月に「喧嘩御定法事」を含む「大内家壁書」が制定。喧嘩は自力救済が常識で集団紛争から社会的混乱を招いた。大名権力による成敗が定められやがて喧嘩両成敗に。ルールが決まり当たり前が変わるのでしょうか。