■【より道‐114】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「船岡山合戦」
我が家の「家系図」に、長谷部左衛門尉元秀という、ご先祖さまがいるのですが、その横の注記に以下のようなことが書かれています。
また、長谷部氏をWikipediaで調べると、下記のようなことが記されています。
長谷部宗連さんや、種連さんは、我が家の家系図には登場しない人物ですが、この頃は備後、安芸、伯耆、因幡に長谷部(長)一族がいましたので、足利義稙を擁立した大内義興と細川高国軍に属して、長谷部一族は、「船岡山合戦」の恩賞として、備前国の小島庄を所領としたのでしょう。
今回は、その「船岡山合戦」について記してみたいと思います。
■足利義稙の復権
「半将軍」と呼ばれた細川政元は、「明応の政変」で、十代将軍・足利義稙を捕縛し、十一代将軍に足利義澄を擁立しました。
しかし、細川政元は、将軍殺しの汚名を嫌い、足利義稙を京都の寺に幽閉しますが、足利義稙は、側近らの手引きにより京都を脱出します。
その後、何度か上洛を試みますが失敗してしまい、周防国の大内義興のもとに身を寄せることになりました。
それから、10年。細川政元が「永正の錯乱」で暗殺されると細川氏のお家騒動が勃発します。これを好機ととらえた、足利義稙は、大内義興と共に上洛を目指しました。
すると、細川氏の家督争いをしている細川高国が、十代将軍・足利義澄と管領・細川澄元を追い出して、足利義稙と、大内義興を京に迎えいれました。足利義稙の復権が成功したのです。
■ お家騒動
細川家のお家騒動の原因は、細川政元が「生粋の男好」で妻を娶らなかったことで、細川宗家を継ぐ者がいなかったからです。
そのため、関白・九条政基の子。細川澄之を養子にとりますが、細川一族と全く関係のない人間に、細川宗家の家督を継がせるわけにいかないと、重臣たちに反対されます。そこで、次に養子となったのが、細川澄元です。
細川澄元は、阿波国出身でご先祖さまには、3代将軍、足利義満を育てあげた、細川頼之の弟がいます。もっというと「建武新政」で、京都奪還に失敗した足利尊氏が九州に落ち延びる際に、四国を平定した細川頼春の子孫になります。
宗家を継ぐには、申し分のない人物でした。さらには、重臣・三好之長が軍事の才能に長けていたことで、細川政元に重宝されて影響力を増していきました。それが、細川京兆家の重臣たちにとって、面白くなかたようです。
■永正の錯乱
細川政元が、山籠りをして修行をすると細川澄之に暗殺されてしまいました。動機は、家督を次ぐはずだったのに、ないがしろにされたからです。
翌日には、細川澄元を襲い近江国に追い出してしまいました。そこで、たちあがるのが、細川高国です。
じつは、細川高国は、幼いころに細川政元の養子となっていましたが、その関係を解消して、細川京兆家の分家、細川野州家の家督をついでいました。
そんなときに、細川政元が暗殺されたとなると、細川一族の恥です。細川澄元が京兆家の家督相続することを支持して挙兵すると、細川澄之を打ち負かし、無事に細川澄元が家督を継ぐことになりました。
しかし、足利義稙と、大内義興が上洛を目指して和泉に入ると、細川高国が寝返り、細川澄元を追い出してしまいました。
いったい、細川高国は、何が納得いかなかったのでしょう。それは、実際の血縁関係が細川澄元よりも細川高国の方が京兆家に近いということ、そして、何よりも本人の器量と功績が申し分ないことを理由に細川京兆家の重臣たちが細川高国を擁立したそうです。
■ 船岡山合戦
足利義稙と細川高国が、足利義澄、細川澄元を近江国に追い出すと、近江国守護の六角高頼が、足利義澄を保護をしたため、近江国からなんども挙兵して京都奪還をめざしました。
すると、一進一退の攻防がつづき、一度は、足利義澄が、京都入洛を果たすことに成功します。しかし、今度は、逃げ延びた足利義稙が勢力を取り戻し再び、京へ迫りました。
そして、ここで、大事件がおきます。それは、六角高頼が足利義稙方に寝返ったというのです。それを、知った足利義澄は失意のなか病死してしまいました。
将軍を失った、細川澄元たちは、山城国にある「船岡山」に陣取り防戦を試みますが、西国の武将を引き連れた、大内義興軍は強大で、細川澄元は敗戦。最後は自害しました。
■長谷部氏
このときの西国の主要武将は、大内義興、畠山義元、尼子経久です。この戦いで、ご先祖様の長谷部元秀さんは、大内義興より、備前国児島庄、現在の岡山県鎌倉市を賜ったということになります。
また、畠山義元は能登の守護大名です。我々の始祖、長谷部信連は、平安時代末期に伯耆に流され、その後、源平合戦が終息すると、源頼朝より、能登の大屋庄を賜り御家人となっています。そして、能登では長家として血脈が続き、石川県の穴水町には、長谷部神社が存在しているそうです。
我々のご先祖様、長谷部元秀さんは、伯耆に流されたときに残された、長谷部信連の末裔ですが、「船岡山合戦」では、伯耆、能登の長谷部氏が足利義稙に属し、ともに戦ったということになります。
中世の時代、能登長氏、伯耆長氏、そして雅樂氏(長谷部氏)は、ともに、将軍直下の奉公衆でしたので、長谷部一族はそれなりに、連携していたことが想像ができます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?