天正17年(1589)11月24日は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。上野国の沼田領をめぐる北条氏と真田氏の紛争で3分の2を北条領とする調停が成立。しかし沼田城主猪俣邦憲による真田氏の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が小田原攻めを決定。
天正16年(1588)8月22日は北条氏直が秀吉の惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上洛させた日。氏直の正室は家康の娘であり氏規と家康は幼少の頃共に駿府で人質にあった関係性があった。一旦これで緊張関係が和らぐと北条は従属の条件とした真田との沼田領問題の裁定を秀吉に求めた。
天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。7月5日に氏直は自らの切腹と引き換えに将兵の助命を請い降伏。父氏政や叔父氏照らは切腹を命じられる一方で氏直は高野山へ送られることに決定。初代早雲以来5代目で関東を制した戦国大名北条氏は滅亡した。