天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。
永禄11年(1568)9月7日は信長が足利義昭を奉じた上洛のため大軍を率いて岐阜を出発した日。美濃、尾張、北伊勢の兵に家康の援軍を加えた4万とも6万とも言われる軍勢であったという。翌8日に近江に入ると観音寺城の六角義賢・義治父子を追いやりあっという間に近江を制圧して京へ入る。
永禄9年(1566)9月9日は浅井長政が六角義賢との合戦に勝利して北近江で勢力拡大した日。長政の初名は義賢の偏諱を受け賢政。妻は義賢家臣の娘。こうした六角への従属を解消し後に信長妹お市との婚姻で同盟。最後は朝倉氏との関係を優先して滅ぶ。誰との関係を優先するかという選択って難しい。
永禄9年(1566)9月9日は浅井長政が六角義賢と戦い三雲賢持を討ち取るなど勝利した日。父久政が六角氏に従属したため長政の初名は義賢の偏諱を受け賢政。従属に不満を持つ家臣らと立ち上がった長政は従属を解消し戦いはじめていた。北近江を制した長政は信長の妹お市と婚姻し同盟を結ぶ。