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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#永井荷風

この年、何にもしるすべきことなし、たゞ、もう、でたらめだつたのなるべし。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十回)

 家業の不振、執筆の行き詰まり、妹の死、友人たちの外遊。  万太郎にとって暗い日々に救いとなったのは、大正四年一月に、荷風、薫を擁してして結成した古劇研究会である。  万太郎は、古劇研究会の結成からは、ずいぶん時間の経過してからの文章ではあるが、 「まづ、木下杢太郎だの、長田秀雄だの、吉井勇だのといつた詩人なり戯曲家なりに呼びかけ、一方、楠山正雄、河竹繁俊、さては岡村柿紅といった演劇評論家を誘った」(「大正四年」)  と昭和三十七年、新橋演舞場で上演された『天衣粉上野初花

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花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。 そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。  年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。  題材に窮した万太郎は

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しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十六回)

4 小山内薫     小山内先生追悼講演会  しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 「感情(かんじやう)の動(うご)き方(かた)があまりに微弱(びじやく)で、読(よ)んでは受取(うけと)れても、演(えん)ぜられては受取(うけと)まいと思(おも)はれる憾(うら)みがある。」「観察(かんさつ)の態度(たいど)の如何(いか)にも『芝居(しばゐ)』を離(はな)れた所(ところ)のあるのを買(か)つたのである。 ----小山内薫『万太郎「Prologue」選評』  荷風と時を同じくして、森鴎外

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某女と結婚せんとして果さず、憂愁かつ放縦の日を送る。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十五回)

 一方荷風は、万太郎をどんな目で見つめていたのか。 「三田文学(みたぶんがく)の諸兄近頃頻々(しょけいちかごろひんひん)として欧米各国(おうべいかつこく)に出遊被致候間手紙(しゆついういたされそろあひだてがみ)の代(かわ)りにと日常(にちじょう)の些事何(さじなに)くれとなく書留(かきとむ)る事(こと)に致候(いたしそろ)。」  にはじまる『大窪だより』は、大正六年にはじまる『断腸亭日乗』に先立ち、大正二年から三年の「三田文学」の周辺を伝えている。  『大窪だより』をたど

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浅草といふ興味多き特種の土地を描く。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十四回)

 明治四十五年 二月二十五日には籾山書店から、久保田万太郎、初の著作集『浅草』が上梓された。  跋は永井荷風である。跋もまた、あとがきに劣らず無愛想な顔をしている。 「旧来のやり方ならば序文や跋は要するに高尚な御世辞であつて、いやに遠回しに言葉たくみにその著者と著作の事を称賛して置きさへすればよかつたのである。否それが即序とか跋とか称するものであつたのだ。」  といわずものがなの前置きがまず、くる。  続いて、美点をあげるのは新進の作家にとって不利であると書き、ならば

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文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。  旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。  毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。  ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。  徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適

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どうせお前には商売ができやしないんだから。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十二回)

 荷風の『すみだ川』は、幼なじみへの恋心にやぶれた中学生長吉をめぐる物語である。  夏の日盛り。俳諧師松風庵羅(「羅」の上に草冠がつく)月が、浅草今戸にすむ実の妹をきづかうところからはじまる。  小梅瓦町から、堀割づたいに曳舟通りをゆき、隅田川の土手にあがって、待乳山を見渡す。  竹屋の渡し船にのって、向河岸に渡り、今戸八幡神社にたどりつく。妹お豊は、常磐津の師匠をしながら十八歳の長吉を旧制中学にやって、将来を期待している。長吉の子供時分の遊び相手のお糸が芸妓にでることに

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泥沼のやうな中に、忽然咲きいでた目もあやな一輪の花(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十一回)

 明治四十二年、万太郎が入学した慶応の文科は、予科、本科を足しても学生はようやく七人か八人。屋根裏の物置のようなところが教室で、そこには三四人の本科の学生が薄暗い顔を寄せていた。  当時の慶應はのちに経済学部となる理財科が看板であり、一年に在学していた水上瀧太郎の『永井荷風先生招待会』が伝えるように、「生徒の大部分が、月給取りになつて、後々重役になる事を夢見て居た」学校である。  作家を志すものなど一人もいなかったのである。  水上自身も、明治四十四年七月小説『山の手の子

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