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【読書】人はそもそもカオスでいいのだという前向きな諦念『他者の靴を履く/プレイディみかこ著』

エンパシーという言葉に惹きつけられて、図書館で私はこの本を手に取った。

読んでみて、結論、私にはちょっと難しい本だなと思った。結構頭に力をギュッと入れて読まないと読み進めることができなかった。私の頭もまだまだだなと思った。

著者は、本書の中で、多様性社会における現代のさまざまな社会課題(コロナ、貧困、資本主義経済格差など)にスポットを当て、その中で「エンパシー」という能力の必要性について、そもそもの「エンパシー」の日本語訳について問うところからはじめ、ありとあらゆる観点からその必要性について検証されているので、興味深かった。

エンパシーとは、一言でいえば、「他者の感情や経験などを理解する能力」のことであり、他者について、自分自身の靴を脱いで、その対している他者の靴を履いて、他者と同じ立場に立って、その他者に対しての正確な理解をすることだと述べている。

普通に、めちゃくちゃ現代社会において大切な能力だ。
と私は思った。

どちらかというと本書は、他者の考えや、感情を理解することが難しいと感じる人向けに、エンパシーの重要性、身につけ方を説いている本になるので、他者の考えや感情に共感しすぎてしまう私には少し読みにくかったのかなとも思った。

けれど、途中で、そういう私のようなエンパスという特性を持つ種類の人たちについての記載があって、本書から私は、先日読んで感想を綴った『LAの人気精神科医が教える共感力が高すぎて疲れてしまうがなくなる本/ジュディス・オルロフ著』という本に辿り着くことができた。

つまり、私は、筆者の言うところの自分の靴を脱いで、他者の靴を履けるところまでは、非常に素敵なことであるのだけれど、そのあと、自分の靴に戻れないタイプの人間なので、それはそれで問題だから、そういう人たちは、自分自身でいられる方法、戻る方法を見つけなきゃね的なニュアンスでこの上記の本を紹介してくださっていたので、めちゃくちゃありがたかった。

本書を読み進めていて、私のような他人の考えや感情に共感しすぎてしまう人間にしろ、逆にあまり他人の考えや感情を理解することが難しい人間にしろ、誰にしろ、人間である以上、大切にしておいた方がよいと思った価値観の記述があったので、下記に引用しておく。

これは他者の靴を履くためにはとても大切な認識になるだろう。ある特定の状況で、誰かの顔がどんな風に(醜く、美しく、優しく、非人道的に、正しく、悪意に満ちて)見えたとしても、それはその相手が持っている顔の一つに過ぎない。その人には必ず別の顔(役柄)があることを忘れたり、故意に否定すべきではない。人間は社会の中で演じている様々な顔の集合体なのだから、「これが本当のこの人」と決め付ける考え方は的外れなだけでなく、危険ですらある。それは帰属性のアイデンティティを一つに決め付ける場合と同様に、憎悪や暴力や悲劇につながるからだ。

本書より引用

『アナーキー・イン・ザ・UK』というパンクロックの経典の歌詞を書いたジョン・ライドンは、「カオスは俺の哲学だった」と言ったことがある。カオスになれ、というのではなく、人はそもそもカオスだと認める哲学だ。カオスでいいのだという前向きな諦念と言ってもいい。人は様々な矛盾する考えや欲望に満ちた生き物なのである。

本書より引用

この「人にはさまざまな顔がある。」ことを理解した上で生きることって、現代において非常に難しいのではないかと私は思う。

私自身、こういう考え方を理解したのはつい最近のことだ。
おそらく、自分自身が人生ではじめてこの考え方に触れたのは、「大豆田とわ子と三人の元夫」というドラマを観たときのことだった。

まずもって、このドラマ、主人公とわ子には3人の元夫がいて、それはつまり3回離婚しているという世間ではたぶん珍しい、特異性をもった主人公なのだが、さらに珍しいのは、この3人の元夫となんだかんだ関係が途切れずに続いているということ。まさに、個々人のエンパシー能力が試されるドラマと言っていい。

このドラマの最終話で、そんな主人公とわ子が、亡き母が残した手紙を見つけ、父と結婚しているにも関わらず、父とは違う相手に恋文を書いていたということに気づく。
気になって仕方がないとわ子は、娘に会いに行くことを勧められ、娘と一緒に、その恋文の宛名にあった、國村真さんに会いに行く。

驚くことに、真さんは女性であった。

とわ子「母は、つき子は、あなたのことが好きだったんですよね?」
真さん「もちろん、私ももちろん。」
とわ子「どうしてあなたのもとに行かず、どうして結婚して、どうして私を産んだんですか?」
真さん「そりゃあ、あの頃、私を選ぶのは、、、。あっそっか。ごめん。先に言っとくべきだったね。あなた不安だったんだよね。」
とわ子「、、、」
真さん「大丈夫だよ。つき子は、あなたのことを愛してた。夫のことだってもちろん、ハハッ、愚痴は言ってたけど、ちゃんと大事に思ってた。あなたのお母さんはちゃんと娘を、家族を愛している人だった。」
とわ子「じゃあどうして。」
真さん「どうして?だよね。家族を愛していたのも事実、自由になれたらって思っていたのも事実。矛盾してる。でも誰だって、心に穴を持って生まれてきてさ、それ埋めるためにジタバタして生きてんだもん。愛を守りたい。恋に溺れたい。1人の中に、いくつもあって、どれも嘘じゃない、どれもつき子。」

大豆田とわ子と三人の元夫(最終回)より引用

このシーンを観て、最後の真さんの言葉を聞いたとき、主人公とわ子と同様に、私は驚くほどに涙していた。涙した理由は明らかで、普通に日々の日常を生きていて、自分自身の考えとか、感情とか、心とか、そういったものの矛盾に私は耐えきれず、けれどその矛盾を無理になくす必要はないと、そう自分自身を肯定されたように感じたからだった。

私たちが生きている現代の情報化社会、多様性社会において、「自分自身が何であるのか?」を定義することは難しい。ただでさえ難しいのに、人はそういう自分自身の定義、存在意義がないと苦しくなって生きていけないのでさらに難しい。

その中で、必死の思いで見つけた自分自身の定義に、人はいつだってすがりついてしまう。勤めている企業の役職とか、父であるとか母であるとか、誰かの恋人であるとかパートナーであるとか、自分の好きなことをビジネスにしているとか、とある趣味でたくさんの人とつながっているとか、、、、。

そうやって自分のものとなった定義に励まされ、その定義である自分を肯定し、それを定義とする自分をもってして他者と関わり、さらに自分の定義をより強固なものとする。そうやってしがみついて生きている。

けれど、誰だって、それに行き詰まってしまうときがくるのではないかと私は思う。私だって行き詰まった。何度も。
そうやって、自分自身が大切にしてきた定義を手放すことは怖い。また、あの、自分自身が何者でもないという恐怖を味わうのは勘弁だ。

そう思えば思うほど、人は、自分の意に反して、自分の定義とは異なる自分が自分の中に現れたときに、それはごくごく自然なことであるにも関わらず、否定して、排除しようとする。「それは間違ってる。」「そんなの自分じゃない。」と。

もちろんそうやって否定して排除することは悪いことではない。
けれど、おそらくそれによって、どんどん自分がわからなくなって、人はどんどん孤独になってしまうのだと、そう思ったりもする。

だからこそ
上記に著者が述べているような「人間は社会の中で演じている様々な顔の集合体である」とか「人はそもそもカオスだと認める」ことって、まずもって他者に対してよりも、自分に対してそう認めることが大切なのではないかと私は思った。

「カオスでいいのだという前向きな諦念」

素敵な表現だと思う。諦念って、一種のあきらめってちょっとネガティブに聞こえるかもしれないけれど、それくらいあくまでここに書いてあるように、前向きに、諦めていた方が生きやすいのではないか。と私は思った。

ことさら世間は、さまざまな定義によって、人を分類し、その分類によって、「そういう人はこうあらねばらなない。」「それによって何かを成し遂げなければならない。」とか言って、ありとあらゆる責任感や使命感を持つことを、まるで悪質な妨害運転のようにあおってくる。

けれど、あくまで人も、この地球に生きる一種の生物であるのだから、生き物として自然に、責任感とか使命感に縛られずに、言うなれば、自分自身を別に定義しすぎずに、生きていいのだと思ったりしてしまうのである。

私の場合、そうやって自分自身の中にある矛盾を諦めるようになってから、だいぶ生きやすくなった。というより、自分自身に余裕が生まれて、他者と接しやすくなった。もちろん他者を苦手だと思って、直感的に避けてしまうこともあるけれど、それもその人の一面であって、またどこかのタイミングで、お互いに心地よい形で、共に過ごせる日々を待つようになったりすると、うまく距離を置けるのでいい感じだ。

もちろん、そうできないこともまだまだあるけれど、、、、。

何より、この本を読んで、そういう自分のカオスを認める考え方をさらに肯定された気がしたので、これからもこの価値観を大切に生きていこうと思ったよい読書だった。


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