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【読書】風刺の極みな恋愛小説『湖畔の愛/町田康著』

先日、旅の途中にふらっと立ち寄ったおでん屋さんで、隣に座っていた歳の近い女性が、おすすめしてくれたとある作家さんの本を、人生ではじめて手に取った。

もちろん彼女がおすすめしてくれたのは、この本ではなく、第41回谷崎潤一郎賞を受賞した「告白」というタイトルの有名な本だったのだけれど、図書館で並べられているその本を見て、予想に反したその分厚さに、途中で断念して、図書館の貸出期限を大幅に過ぎてしまいそうな気配を感じてしまったので、同著者の恋愛「喜劇」小説と呼ばれるものから一旦読んでみようと思い、こちらの本を手に取ることにした。(私は図書館で借りた本はそれなりに貸出期限を守ろうと努力するタイプである。)

結論、こちらの本から手に取ってみてよかったと思った。
たぶん、最初から「告白」に手を出していたなら、私はきっと、これ以降この著者の本を読むことをあきらめていたと思った。

なぜなら、めちゃくちゃ独特だからだ。
それなりに小説に関しては、いろんな人の小説を読んできていたつもりだったけれど、どの作家とも似て似つかない不思議な文体だと私は思った。

世界の国に例えると、インドみたいなかんじ。
訪れてみて好きだと思う人と、嫌いだと思う人が、信じられないくらいにくっきりと分かれる。そんなかんじ。
けど好きだと思った人は、信じられないくらいに傾倒して何度も訪ねてしまうし、嫌いだと思った人は、何らかのトラウマを抱えて二度と訪れなくなる。そんなかんじの本だった。

人によって、この本を読んだ感想は多種多様ある気がしているけれど、私としては著者の「風刺」の観点がめちゃくちゃ好きだなと思ってしまった。

念のため先に論点が外れないように「風刺」の定義を記載しておく。

風刺(ふうし)とは、社会や人物の欠点・罪悪を遠回しに批判すること。また、その批判を嘲笑的に表現すること。「―のきいた小説」「時代を―する」

コトバンクより引用

結構私は、この「風刺」という概念が物心ついたころから好きで、自分自身も独特な「風刺」の観点から、今一度世間をハッと気づかせ、アッと驚かせたいと思いながらずっとものを書いている節があるのだけれど、どう死ぬ物狂いで頑張って、今の自分の人生でどんなに徳を積んだとしても、絶対に手の届かない、「風刺」の神の境地に著者はいるような気がして、自分の凡庸さに絶望してしまう気分になった小説だった。

そんなこの本を読んで、著者の「風刺」の極みだなと思う部分を、自分の凡庸さを位置づけて強固なものとした上で、書くことに奔走することを鼓舞する意味でも、下記に忘れないように綴っておこうと思う。

「ぶりっこ」という概念に関する風刺

「赤岩ミカと申します。よろしくお願いします」
おかっぱの偉そうなおばはんの割に、ことさらに語尾を上げて可愛いぶった、まるで十五、六のアイドルタレントのような口調だった。新町は、気色悪っ。と思った。けれど新町はそれを表情に出さない。それこそが真のホテルマンだと新町は信じていた。・・・・・
「やったあ」また、赤岩が可愛いぶり、新町は嘔吐を催した。実はその向こうで荷物を運んでいた、大馬とスカ爺も嘔吐を催していた。帳場のところにいた圧岡も嘔吐を催していた。

本書より引用

ちなみにこの後、催すだけでなく、この赤岩ミカのぶりっこぶりに、みんな結構本当に嘔吐している。
「ぶりっこ」に関して、今の現代においては、どちらかというと批判的な立場でいた方が楽にいられる社会で生きていると思う。

けれど実際、さまざまな有名人やタレントやアイドルを通して、「ぶりっこ」という存在が、世の男性たちを虜にしている事実はずっと根強くメディアを通して報道されているわけで、つまりそれをもって、どんなに批判的な意見があるとはいえ、「ぶりっこ」という存在は絶滅しない。だからこそ「ぶりっこ」が男にモテるという通念もずっとこれからも存在し続けていくだろうと私も思う。

けれど「ぶりっこ」が世の男性を虜にするという概念には、揺るがない絶対的な前提がある。

その前提をはき違えてしまうとどうなるかを、もう少し考えてみてほしい。的なニュアンスで、著者は「嘔吐」という表現を用いて、前提をはき違えた「ぶりっこ」を痛烈に風刺している点がめちゃくちゃ面白かった。

会社・組織に対する風刺

なぜ経営改革を推し進める九界湖ホテルはそんな無能な人物を雇用したのか。もっと増しな人材はなかったのか、というとそれはあった。ところが採用できなかったのは綿部の設定した時間給があまりにも低かったからである。綿部の認識では人件費を初めとする諸経費は悪であった。退治しても退治しても悪ははびこる。けれども悪を根絶しようとする努力を惜しんではならない。少しでも懈怠あらば悪は忽ちにしてその権威を増し善(売上)を食い尽くし粗利益を蝕む、と綿部は信じていた。
けれども善を生む有能な人材はそんな安い給料で働こうとは思わない。綿部は相手にも選ぶ権利があることをすっかり忘れていた。

本書より引用

ここで指し示されている無能な人物「鶴丘老人」は、一応ホテルのベルボーイとして雇われているが、とんでもなく仕事ができない人物として描かれている。その無能さには苛立つどころか、仕事ができなさすぎて、もはや諦めて笑うしかないくらいの境地に至っている人物なのだけれど、それを目の前で目の当たりにしてさえ、ゆるがない綿部の抱く経営改革の強固さに、最初は狂っているというか、フィクションの面白さを感じてしまうのだけれど、でもよくよく考えてみると、こういう経費とか利益ばかりを気にして、そもそも本来の目的を見失ったままに、組織が衰退していくさまって、意外と世間ではめちゃくちゃ一般的なことに気づくと、もはや恐怖さえ覚えてしまうような、秀逸な風刺だなと思った。

音楽とか含む芸術に対する風刺

しかしその歌は誰の心にも響かなかった。なぜというに彼女は主に、自分はこんな感じで生きていこうと思う、という自分の人生の方針のようなものを詩的に表現し、それを節に乗せて歌っているのだけれども、それを聞いたところで、「それはその通りだ。自分もそう思う。賛成!」と特に思わないし、かといって、「いや、それはどうだろうか。私はそうは思わない」とも思わない。というかそれ以前に、聞く気が起こらない、という事象が起こっていたからで、まったくなにも思わないまま、ただただそこに立っているという無の境地に観客はいたっていた。なぜそんなことになるかというと、自分は自分でいろいろあって忙しいため、もしそれが有名人であったり、気島淺の如き超美人であるなら話は別だが、そんな麻の貫頭衣着に、不美人の特におもしろくもない人生になんの興味も抱けなかったからである。ということで客は無の境地にいたっていたが、しかし完全に悟っているわけではなく、不本意ながらそうなっているので、早く自由になりたい、自由になって人間らしい思考を取り戻したい、と希求していたのだが、その無の状態を陶然として聞き惚れていると曲解したボーカルの女性はますます感情を込めて歌い上げ、感情が入るあまりついには嗚咽・号泣し、しかしそれでもやめないで涙、洟、涎を垂れ流して歌い続け、聴衆はさらなる無の境地に追い込まれていったが、再入場不可、すなわちいったん外に出たらもう一度、内には入ることができない、というライブハウスの掟に随ってその場にとどまり続けるより他なかった。

本書より引用

昔と違って、現代の、自分の考えとか、文章とか、芸術とか、音楽とか、そういったものを気軽に発信して、視聴者側も手軽にアクセスできるようになったこのネット社会の世の中において、上記に引用した観点で、その個人の発信が「人の心に響かない」ことって、身近にコンテンツが溢れかえっているからこそ、かなり頻発している事象のことのように感じてしまった。

けれどそれでもどうにかして「人の心に響かせよう」として、人々は毎日、血の滲むような努力をしていたりするし、そうやって、溢れているものではない秀逸な何か、人とは違う何かを生み出そうと、差別化しようと半ばやけになったりして奮闘していたりもする。

だから人々はそう言った努力の結晶をつぶしてしまわないよう、できる限り賞賛をしていこうみたいな風潮があるけれど

小説内では容赦なくそんな発信が「人の心に響かない」過程が見事に描写されていた。こんなにごもっともな表現を他に見たことがなかったので、感動してしまった。

それに、そうならないようにと気をつけながらも、そうやって繰り返し、人の心に響かないことを繰り返すことで、究極になってくる無の境地にこそ、本当の「人の心に響くもの」が生み出されてくるようなそんな気もしたりして、めちゃくちゃ余韻の残る風刺だなと思った。


人間の真理に対する風刺

人にとって重要なことも自分にとってはどうでもよい問題である。けれども他人事が気になるのは、その全貌がわからぬからで、全貌がわからないうちはどうしてもそれが知りたくなる。欠けたピースを埋めたくなる。けれどもそれが埋まってしまった途端、それらはどうでもよい他人事となる。わからぬ部分が人の興味をかき立て、好奇心を刺激し、欲望をそそるのだ。

本書より引用

これって人間の真理だと本当に思う。明らかにならないからこそ、人の興味とか関心は盛り上がるのであって、それがすべて明らかになった瞬間に価値がなくなってしまうことって、まさに、、、。笑いながら普通に小説として読んでいると、つい読み飛ばしてしまいそうになるところに、急にこんな風刺を入れている著者の文体に圧巻だった。


こうやって書いてみると改めて、この著者の世界観に自分がすでに沼っていることに気づいた。インドで例えるなら、聖なる河、ガンジス川のほとりで、こんなに茶色く濁った汚い水の中に沐浴する人間がいるだなんて、、、、。とそう傍から見ていただけのつもりだったのに、すでに私は服を脱いで、ガンジス川の中で沐浴の最中だったみたいだ。

過去にガンジス川を訪れた先輩が、そこにいるインド人に倣って沐浴をした翌日、赤痢にかかっていたという話を聞いたことがある。
そうはならないように気を付けたいとは思うけれど、たぶん、赤痢になることが頭ではわかっていたとしても、これからも思わず手に取ってしまう作家さんだなと思って、また著者の本を読むことを楽しみにしている自分がいる。


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