【読書】「助けて」と言えない日本社会で『神様を待っている/畑野智美著』
先日、はじめて著者の本を読んで、日本で生きる女性だったら誰もがわかりみの深すぎる素敵な描写が印象に残ったので、本日は2冊目を手に取った。
こちらもなかなかにわかりみの深すぎる内容だった。いわゆる日本の貧困女性問題を背景に置いている社会派小説なのだが、わかりみが深すぎて私にとってはもはやホラー小説だった。
※ちなみに1冊目に読んだ著者の本はこちら。
恋愛とか結婚とか出産とか、世間の認識とのずれに悩む女性にぴったりの一冊だったのでこちらもおすすめだ。
話を戻そう。
今回読んだ著者の本、完結に内容をまとめると、大卒で、就活がうまくいかずにとある文房具店で派遣として3年間勤めていた会社で派遣切りにあったあとから、思わぬ形で人生が転落していく主人公「愛」の物語である。
失業保険/生活保護/奨学金返済難民/貧困女子/ネカフェ難民/ホームレス/パパ活/援助交際/売春/歌舞伎町/トー横キッズなどなど、一度は聞いたことのある日本の社会問題を小説の題材としてしっかりと取り上げているので、ニュースでその問題を見るよりも身近に感じて読みやすい、そして現実味を帯びすぎていてもはや怖い。
今日はその本を読んで、一番怖いと感じたポイントを、綴っておこうと思う。
そのポイントは
主人公愛が、「助けて」とたった一言その言葉が誰にも言えなかったことによって、なかば無意識のうちに貧困状態に陥ってしまっていたという点である。
主人公愛には、とても素敵な男友達「雨宮」がいる。
愛は、家族とはやや複雑な関係なので、そもそも頼りずらい設定になっていることは前提としてあるのだが、この雨宮くん、とても優秀で、愛が明らかにおかしい状況になっているのにいち早く気づいて、ずっと連絡を入れてくれているのだが、、、。彼女は、そんなとても優しい彼に「助けて!」と言えない。
そして、そうやって連絡を絶ち続ける彼女の心情描写は綿密に描かれているのに気を取られている間に、気づいたら無職、失業保険支給期間満了、日雇い、家の解約、ネカフェ生活、、、、。どんどんと貧困の渦の中に飲まれていることをもはや無意識のように感じてしまう描写になっているからえげつない。
そして幸か不幸か、私も今、主人公と同じ、無職で失業保険を受給中という同じ貧困の入口に立たされている。それがとにかく恐怖でしかなかった。
そして、同じ入口に立っていると仮定して
私は誰かに「助けて!」ってそう言えるのだろうか。
と自分に問うたときに
「いや、結構無理かも。」と思ってしまった。
とりあえず、この「結構無理かも。」の感情に、上記で挙げたような社会問題が今なお存在してしまっている原因があるような気がしたので、ここからは自分の個人的考察を綴っておきたい。
この「助けて!」あからさまに口にできる人ってこと日本において少ないと思ったので、わかりやすく病気に例えてみようと思う。
おそらく多くの人が、下記に書く病に常に伏してしまっている結果、「助けて!」ってその言葉が気軽に言えなくなってしまっているのではないかと私は思った。
人に迷惑をかけない病
もちろん例外や、年代によっての違いはあると思うが、きっと日本社会で生きてきたなら誰しもが一度は
「人様に迷惑をかけるな。」
と誰かに指摘された経験ってあるのではないかと思う。
こと、私は本当に幼少期の頃からずっと両親にこっぴどく言われ続けてきた言葉だった。両親ともに公務員だったので、もちろん体裁なるものは気にして生きなければならなかった立場だったのだろうけれど、、、。
公務員とか、お医者さんとか、結構固い職業についている親の子どもって言われがちなのかもしれない(あくまで個人的な私の偏見)。
だから、あたりまえのようにずっとその言葉を信じて疑わずに、もはや無意識のレベルまで浸透させて、自分の行動を律して生きてきたのだけれど、よくよく考えてみれば、変な話だと思う。
だって、人ってそもそも生まれた時点で、まず母に迷惑をかけている。
出産のハードさを考慮すると、とんでもない迷惑だ。
金髪先生も「人という字は互いに支えあってヒトとなる。」と言っているように、字の成り立ちから考えても、人が迷惑をかけずに生きていくなんて無理な話で、たくさんの人たちとお互いに迷惑をかけあいながら、支え合いながら生きていくしかない。
それなのに、特にこれといった明確な納得できる理由もなく
「人様に迷惑をかけるな。」
と言われて生きてきてしまうって、一体全体どんな風の吹き回しなのだろうかと思う。けれど、そんなことに気づいたのは、本当にここ最近で、幼少期に叩きこまれて20年以上、その病に伏して生きてきていたもんだからなかなかに治療法がない。そして、ここぞのピンチのときにいきなり症状が悪化して現れるからやっかいだ。
「誰かに頼りたい。けど、迷惑をかけてしまうかもしれない。」
そう思ったら最後、誰にも頼れずに気づいたら1人になってしまっているってこと結構私にはあった。けど、日本社会で生きていたらかなりの確率でありえる話なのではないかと思う。
自己責任病
そしてもう一つやっかいな病がある。
これもおそらく日本社会で生きているなら一度は誰かに言われたことがあるのではないだろうか。
「それって、自己責任だよね。」と。
この言葉の背景には必ず、先ほど挙げた「人に迷惑をかけない病」が根強くある。いわば、この「自己責任病」は、「人に迷惑をかけない病」と同じ種類の病気だ。私は完全に併発している。
どんなに理不尽な状況にあったとしても、別にそう人に直接的に言われていなかったとしても、自分が今困っているのは、苦しいのは、全部自分の責任だと考えてしまう。
みんな「ちゃんと」生きているのに、自分だけ「ちゃんと」生きていなかったからこうなってしまった。少し失敗しただけなのに、少し回り道してしまっただけなのに、少し休んでしまっただけなのに、それが別に誰のせいでもないはずなのに、全部が全部、自分の責任。
怖いのは上記で書いたような「ちゃんと」の定義って別に明確にあるわけでもないのに、勝手に自分で定義づけてしまうこと。
例えて定義づけるとするなら
「小中校卒業して、真面目に勉強して大学に行って、頑張って就職活動をして、正社員で会社や組織に入社して、一生懸命働いて、結婚して、家庭を持って、子どもが自立するまで子育てして、定年になるまで、休まずにずっと、家庭のため、社会のために働き続ける。」みたいなところだろうか。
私もいつも不思議に思ってしまうのだが、上記の生き方って1つの選択肢でしかなくて、結構な確率で、みんなどこかで失敗していたり、横道にそれたりしているものに、というかこの選択肢通りに「ちゃんと」やり遂げている人ってものすごくレアなだし、もはや現代においては存在しないかもしれないのに、まるでそれが常識であるかのように考えて、少し横道にそれただけで、全部それを「自己責任」って、、、。
こんなに悲しくてつらい話ないのに、意外とあたりまえにこういうケースってあるから、さらに悲しくなる。
ここで定義づけた「ちゃんと」って全然あたりまえじゃない。
今、私は無職になって痛感しているけれど
普通に考えて
自分が7月まで、ちゃんと会社に就職して、正社員ではなかったけれど、週5
で毎日8時間働いて、結構な額の税金納めてた。
この事実だけで、自分自身に私は大きな拍手を送りたいとそう思う。
無職になった今、全然働きたくないし、普通に生活するだけでしんどい。
お金はないし、なのに税金はかかるし、物価も高いし、、、。
息しているだけでえらいとそう思う。
息しているだけで「ちゃんと」してるよってそう思う。
もちろん人によってさまざまな「ちゃんと」の定義があるので一概には言えないけれど、それでも、そもそもこの定義って人によって違うのだから、もし仮に誰かに「ちゃんと」してない。そんなの自己責任だって責められたとしても、あくまで一意見として聞き流せばそれで本来いいはずなのだ。
それなのに、、、。
この病も先ほど述べた「人に迷惑をかけない病」と同じように、ここぞというピンチのときに症状が悪化してしまう。
「誰かに相談したい。けどそれは甘え。自己責任なのだから自分でなんとかしなきゃ。」
そう思ったが最後、また孤独に陥ってしまう。
そういう社会で生きているという認識
私は今、この2つの病にかかっていることを自覚している。
自覚したとして、なかなかに治療するのは難しく、日常的にこの症状に悩まされる。
こういう人、私だけなのかなって思っていたけど、結構かなりの人数身の回りで目にしてきたし、この小説を読んでさらに、その認識は間違っていないのではないかとそう思った。
何か即効性のある治療法があれば問題ないのだけれど、それは結構難しい。
だとするならば
せめて思ってしまうのは
こういった病に伏している人たちはたくさんいて
自分でも無意識のうちに、結構気軽に「助けて!」って言えない社会の中で生きていることを誰しもが認識するだけで、少し変わっていくのかもしれない。
そんなことを改めて気づかせてくれた、考え深い一冊だった。