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【読書】極限まで堕ちた先に『個人的な体験/大江健三郎著』
人間が見事なまでに堕ちていく物語だった。
産まれてきたのは奇形の我が子だった。
「そういう、脳ヘルニアの赤んぼうが正常に育つ希望はあるんでしょうか?」
主人公鳥(バード)は、そんな我が子が「正常に育つ可能性」を何度も医師に問いかける。まともな答えは返ってくるはずなんてなくて。
そもそも子どもが産まれる以前に、我が子が産まれた瞬間に、自分は憧れ続けていたアフリカ旅を断念しなければならないという現実を受け入れることすらできていなかった。
これから我が子にかかる手術費用などを考えたとき、主人公鳥(バード)は困惑した。どこにも行き場のない感情を抱えて、彼はことごとく堕ちていく。
自分をかつて陥れたアルコールに手を伸ばし、女友達と不貞に走り、仕事まで失ってゆく。
「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ」
と鳥(バード)はいった。
「個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでいくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はある筈だろう?その場合、とにかく苦しむ個人には苦しみのあとの果実があたえられるわけだ。暗闇の洞窟で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋も手にいれていたトム・ソウヤーみたいに!ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生れない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ、ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」
希望の光すら何も見えなくなった絶望的な穴ぼこの中で、主人公鳥(バード)は、どうしようもなく絶望し、最終的に、産まれてきた我が子を自ら殺める作戦を企ててしまう。
本書のほぼすべてに、この主人公鳥(バード)がいかに絶望し、堕ちていくかという過程が極限まで、こと細かに詳細に描かれている。
実際、著者の実体験に基づいている部分が大きいとのこと。巻末に著者はこんな言葉を残している。
頭部に異常のある新生児として生まれてきた息子に触発されて、僕はこの「個人的な体験」にはじまり、いくつもの作品を書いてきた。それらはすべて、出発点をなした長編小説とおなじく、現実生活での経験にぴったりかさなっているというのではなく(すなわちわが国の文学の伝統的なジャンル、「私小説」のようにではなく)、しかしやはりその自分としての経験に、深いところで根を達しているものであった。それらの作品のいちいちについて、表現されている知恵遅れの子供と父親との関係の差異を見れば、ひとつの作品ごとの、小説の方法についての僕の戦略があきらかであろう。
個人的な感想として
人間の絶望感、堕ちていく様子を描いた作品はたくさんあるけれど、ここぞとばかりにその部分を詳細に描き切った上で(約250ページ)、最後のたった4ページで、それを覆す「希望」が描かれた小説を読んだことは、なんだかはじめてだったような気がする。
あんなに散々、ある意味、誰がみても非人道的に感じてしまうくらいの狂気にまで堕ちていた主人公が、急激に「希望」に変化していく様子は、ものすごく急激な展開だったにも関わらず、私が読んだ限りは、違和感がなかった。
ごくごくあたりまえのように、自然のことのように、ふと現れた「希望の光」を主人公は享受していて、その違和感のなさに、私は一番著者の強いメッセージを受け取った気がした。
人は、どんなに絶望の淵に堕ちていっても、狂気の沙汰にかられたとしても、必ず希望を手にすることができる。
著者の実体験が根にあるメッセージに、とても勇気づけられた一冊だった。