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【読書】当人が納得している恋愛ならそれでいい『痴人の愛/谷崎潤一郎』

なんだかものすごい恋愛小説を読んでしまった気がしている。

きっかけはとあるxのツイートだった。

どう考えても気になりすぎて、図書館においてあった、宝島社より出版された同著を読んでみた。巻末に芥川賞作家の羽田さんの鑑賞文も記されてあって、こちらも興味深く、一気に読み切ってしまった。

大正時代を舞台に描かれた恋愛小説で、初版は1947年。約70年以上もの間、人々に読み継がれている作品である。いわば古典という分類に属する本にも関わらず、とにかく読みやすい。
現代小説ばかりしか読まない私にとってもめちゃくちゃ読みやすかった。実際、本書巻末に収録された羽田さんの鑑賞文にも同様のことが記されたあった。

中学時代に背伸びをして様々な古典文学を、通勤電車の中で半ば修行のように沢山読んだ。教養として義務感で読みはしたものの、古今東西の古典作品を心から面白いと思ったことはあまりない。学生時代は、エンターテインメント小説のわかり易さに傾倒したということもあるし、今現在の自分の考えとしては、小説は時代に合ったように進化してゆくから、現代作家により書かれている現代小説のほうが、大概の古典小説より面白いと思っている。しかし、谷崎潤一郎作品群は、そういう次元の分類から飛び出している。

本書巻末鑑賞文より引用

少しばかり、時代の違いでわからない単語は要所要所にあれど、ストーリー自体は非常にわかりやすくて、面白くて、あっというまに読み終わってしまったことを残念に思ってしまうくらいだった。

ストーリーの概要は、いわゆる質素で平凡でどこにでもいるようなありきたりのサラリーマン譲治(28歳)が、カフェーで出会った幼き女性ナオミ(15歳)に魅せられ、彼女を自分好みの妻に育て上げようとはじめた共同生活の数年間を描いた物語である。

真面目なサラリーマンだった譲治は、彼女の美貌に取り憑かれて、いつのまにか彼女にお金をつぎ込んで使い果たし、貯金までなくなり、実家にまで頼り、そして、会社まで辞めてしまうという、これでもかというくらいに堕ちていく過程が鮮明に、詳細に描かれているのが、とても印象的だった。

本書を読み終えて、「恋愛は結局、当人同士が納得しているのならば、それでよい」そんなような著者のメッセージを私は受け取った気がしている。

本書の中では、いわば、明らかに異端と呼ばれる恋愛の形がさまざま描かれている。

歳の差の共同生活の様子を見れば、ものすごくマゾヒズムな要素が満載だし、途中から描かれるナオミの男癖の悪さ(旦那を差し置いて複数人の男性と関係を持つ)もだいぶ異常な感じを私は受け取った。

その露骨に描かれた当人たちの異端な愛の形はめちゃくちゃ印象に残った。

けれど、最終的に一番印象に残ったのは、こんなにも身ぐるみをはがされて、お金も地位も名声も全部失って、なんだか、奴隷の扱いまでに自らが堕ちてしまっているにも関わらず、この小説の語り手となっている、当の本人、譲治自身が、その恋愛を、そのナオミとの異端な愛の形を、納得した上で生きているということである。

これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑ってください。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身はナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。ナオミは今年二十三で私は三十六になります。

本書より引用

私はこの最後の文章がものすごく、印象に残ってしまって、でも、結局のところ、どんな恋愛であっても、ここに尽きるよな。とそんなことを思ってしまった。

昨今、テレビやSNSで、芸能人や政治家の不倫問題が毎日のように報道され、その中でなんだか、セカンドパートナー(セカパ)みたいな新しい概念も誕生して、それに対して世間の異常なほどの批判の声も相次いでいたりする。

けれど、どんな批判であれ、結局、みている私たちはどこまでも部外者なわけで、その当人たちの気持ちなんて、本当の愛の真実なんて、何もわからないわけで、、、。

もしかしたらそこには、他人には言えないような、他人には公表するまでにも及ばないような、当人たちにしかわからない、当人たちだけが互いに納得し合っている愛の形があるかもしれないわけで、、、。

そうやって当人たち同士が納得しているなら、別に世間がどう批判しようが関係ない。それが、ひとつの愛の形で、他人と比較する必要なんてない。みんなそれぞれの恋愛をしていて、みんな違って、みんないい。

そんなメッセージを強く語りかけられているような気がして、現代に生きる多くの人たちにもっと、読み継がれてほしいと思ってしまった一冊だった。

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