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【読書】きっと誰でも推している『推し、燃ゆ/宇佐美りん著』

今さらながら、数年前から話題となっている本書を読んでみた。

私自身は、主人公あかりのように、誰かを推したという経験はない。誰かのライブにいったこともなければ、ファングッズを買ったこともない。あまり縁のない話かと思って読んでみたのだけれど、推しがいない私にとっても、なんだかグサッと刺さる一冊だった。

学校生活も、バイトも、家族との関係も全然うまくゆかない主人公あかり。
日々の「重さ」に押しつぶされそうになりながら、推しを推す。

そのことを、余暇でもない、趣味でもない、「背骨」と表現しているところになんだか胸がざわついた。

推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

本書より引用

あかりにとって、いわば推しを推すことは「背骨」であり、身体の一部、自分の一部、人生の、生活の一部だ。

今でこそ、「推し活」自体の考え方は多くの人々に受け入れられているものの、おそらく、この本が出版された当初(2020年)はまだまだ、その活動をしていること自体に白い目が向けられることも多かったのではないかと思う。

「推し」がいない私自身も、なんでそんなに、やけになって「推し」にすべてを注ぐんだろうとずっと疑問に思っていた。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒を見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。

本書より引用

けれど、本書を読んでいると、だんだん主人公あかりの気持ちに自分が共感していくのがわかる。

「推し」という形をしているだけで、実際、私自身ものめり込んでしまった経験ってあるなと心当たりを感じてしまった。

アルコール、男、タバコ。

みたいなところだろうか。この点については、あとがきで金原ひとみさんも同じようなことを書いている。

誰から見てもあからさまに不健康で、そんなこと辞めたほうがよっぽどましだよと、どんなに言われようとも、自分はそれがないとやってられないわけで、生きていけないわけで、私自身にとっては生活の一部、人生の一部で、「背骨」で、それらも立派な「推し」に近い存在だなということがわかった。

あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。

本書より引用

この感覚もめちゃくちゃわかるなと思っていて、特に恋愛の沼なんかにはまってしまったときの感覚も本当にそうだと思った。自分の身を削ることで、相手に尽くして、尽くした分だけの自分の存在価値を見出す。みたいな。

こう考えると、私も形は違えど立派な「推し活」経験者だなと改めて思った。

そして、そもそもこの世の中に、誰かを、何かを推していない人なんているのだろうか。そんなことを思った。

このために頑張れる。
これがあるから私はまだやれる。
自分が削れても、それでも追う。支える。

他人からみたら、明らかに不健康だと言われるようなことの方が、よっぽど人間らしく感じてしまうのは私だけだろうか。

きっと作者もそんなようなことを伝えたかったのではないかと「推し」を通して、人の生き方について考えさせられた一冊。

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