見出し画像

【読書】人を殺める可能性は誰にだってあるということ『告白/町田康著』

思わず伸びた手を引っ込めたくなるくらいの分厚さのあるその本を、今しかないと勇気を振り絞って手に取ってしまった。

実際に明治時代に起きた大量殺人事件「河内十人斬り」をモチーフに、人が人を殺めるまでの過程が、主人公熊太郎の人生と心情を通じて、もはや途中から嫌になり、目を背けたくなってくるほどに詳細に、こと細かく、約700ページにわたって描かれている小説である。

けれど、嫌になればなるほど、目を背けたくなればなるほど、結末を見届けたくなってしまうので、読み始めたが最後、著者の世界観にまんまと沼にハマってしまって、一気に読み終えてしまった。

読了直後は、頭を使いすぎて頭が溶けてなくなったかと本当に思った。

そしてしばらく経って、改めてこの小説を読んで、なぜ、私が嫌になり、目を背けたくなったかを振り返ったら、胸がざわついてしまった。

なぜって、主人公熊太郎は最終的に、人を大量に殺めてしまうのだけれど、その過程での熊太郎の心情の変化や考え方に嫌でも、自分自身が共感してしまう部分があったからである。一番共感してしまった部分を下記に引用しておく。

他人が死んだり大怪我をしているのをみてへらへら笑っている人間が、いざ自分のこととなると、指先に棘が刺さっただけで生きるの死ぬのと大騒ぎをするみたいなことである。もちろん人間というのはそもそもそもように利己的なもので、熊太郎もそのこと自体を苦々しく感じているのではなかった。熊太郎がもっとも苦々しく感じたのは、そこではなく、そうして自分を追い詰めた熊次郎の意識の持ち様であった。熊太郎は相手の一切の自由を剥奪するつもりであれば、自らも一手間違えば同様の憂き目に遭うという覚悟を持つべきであると思っていた。相手を殺すつもりであれば自分もまた死ぬ気でかかるべきだと思っていたのである。ところが熊次郎はそんなことはつゆ思わず、自分は安全な位置に居て、自分の足元は揺るぎないものだと信じていた。

本書より引用

熊太郎は口惜しかった。熊太郎は心の底、腹の底から、俺は阿呆やった、と思った。餓鬼やった、と思った。熊太郎は自分や弥五郎や博奕場で会う愉快な仲間たちは世の中のルールから外れて生きているが、世の中には正義というものがあると思っていた。そして傳次郎のごとき大人がこれを公平に裁いてくれると熊太郎は信じていたのである。しかし、当然の話ではあるが現実にはそんなことはなく、みんなひとりひとりがてんでに、その都度その都度の自分の都合で生きているというのが世の中というところで、だからこそ世の中には紛争や揉め事が絶えぬのであるが、そのことを知らなかった熊太郎はなるほど子供であった。

本書より引用

上記に引用した箇所の前部分には、そうやって熊太郎がある意味、世の中にショックを受け、絶望してしまう要因となった出来事が記載されているのだけれど、それによって、熊太郎は、大量殺人への道を一歩一歩進んでいくのだけれど、これって割と現代社会においても、あたりまえによく抱く違和感というか、絶望感みたいなものだなと思った。

特にSNS。インフルエンサーとか、割と人気のあるタレントとか芸能人とかに対する誹謗中傷は今、めちゃくちゃ問題になっているけれど、なくなるどころか、日に日に悪化しているように感じてしまう。

悲しいことに、人をこらしめようとか、人に悪さを働こうして誹謗中傷のコメントを投げている人には、そうやって人に悪事を働いたら自分自身にそのまま返ってくるかもしれないとか、自分自身も叩かれるかもしれないとか、そんな感覚はまったくもってない。

自分が誰だか特定されることはないという匿名性に甘んじて、自分の足元は揺るがないと信じた上で、彼らは誹謗中傷を平気で何食わぬ顔で行っているのである。

そういった人たちに仮に違和感を抱いていたとして、どんなにそれらが「悪」であり、正しくまっとうな「正義」ではないと誰しもが思ったとしても、結局のところその「正義」というものは、誰かの都合によって作られていたようで、作られていなかったみたいなあやうい存在で、明確で強固なものではないがゆえに、「悪」は裁かれず、泣き寝入りをせざるを得ない状況が度々発生しているように感じる。

上記に引用した部分を読んで、もしも、もしも私が同じ熊太郎の立場にいるとするなら、きっと、彼がそうしたように武器調達に走ってしまうのかもしれないと、割と本気でそう思ってしまった。

そうやって、再三、人が殺める過程を書き切り、実際に人を殺めてしまった主人公まで書き切ったところで、著者は下記のような言葉を記載している。

人間というものは因果なもので、別に啓蒙され、進歩発展したから慈悲忍辱の心を持つようになったのではない。ではどうしていまの人間が当時の人間より慈悲深くなったのかというと、それは食う心配がなくなったからで、人間というものはまず自分の生存、それをなによりも優先し、それが満たされて初めて他のことを思いやることができるのである。それが証拠にいまでも後進国に行けば人間の値段は安い。わが邦においても、今後、経済が悪化し、国民が等しく食うや食わずの生活になれば、モラルが荒廃した分、以前よりもずっと他人の死に対して無感覚になるだろう。ということはどういうことかというと、つまりいまの人間が昔の人間に比べて慈悲深くなったのではなく、ただナイーブになっただけで、食うのに精一杯であった当時の人の方がより強い精神を持ち、より透徹した死生観を持っていたとも言える。

本書より引用

つまり、私たちが今、「人を殺す」ことは「悪」だと多数の人たちが思っている社会で生きることができているのは、ただ単純に、何不自由なく食べるものがあり、暮らす場所があるからこそという、大きな前提があるということであり

その社会で、著者の言うように、ある意味ナイーブに生きてきた私たちは、少しでもその前提が揺らげば、いつだって人を殺めることを厭わなくなってしまうということである。

悲しくも、最近ニュースで話題となっている度重なる「闇バイト」事件がこの箇所を読んで頭にちらついてしまった。

「人を殺すことはよくない」「人は殺してはいけない」

もちろんそれを揺るがない正義として後世に語り継がれていかなければならないことだとは思うけれども、シンプルに、そもそも人は自分自身の生存が前提に保障されなければ、いつだって人を殺めてしまう可能性のある、極めて利己的で、あやうい存在であるということも同時に、語り継がなければならないことを、この長きに渡る小説の中で、痛烈なメッセージとして受け取ることのできた、圧巻の一冊だった。

いいなと思ったら応援しよう!