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【読書】肩の力を抜いてみる『センスの哲学/千葉雅也著』
できれば、「センスいいね」と言われながら生きてみたくて、だからこそずっと読みたかった一冊をAmazonで手に入れて読んでみた。
とりあえず、読み終えただけだけど、すでにセンスが良くなった気になってモチベがあがってしまったのは私だけだろうか?
そのくらいわかりやすく、優しく、センスについて説明してくれる、そして、どこまでも知的好奇心を刺激してくれる一冊だった。
せっかくなら今取り組んでいる、noteの創作にも生かせたらなと思いながら読んでいて、noteを書くという視点から、参考になった部分を忘れないように引用しておこうと思う。
モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。・・・・
「モデルに合わせようとして合わせきれない」というのが悪い意味でのズレで、それがセンスが悪いと見なされる。だったら、そもそもモデルを目指すことから降りてしまい、自分の積極性を肯定する「ヘタウマ」でいいじゃないか。
「偶然性ベースのゆるい状態から締めていく」というような発想で、テキトーに絵を描いてみたり、音を出してみたりすると面白い。何かを表現しようと意気込むのではなく。
これはひとつのライフハックで、何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに注目するのではなく、「とりあえず手持ちの技術と、自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。規範に従って、よりレベルの高いものをと努力することも大事ですが、それに執着していたら人生が終わってしまいます。人生は有限です。いつかの時点で、「これで行くんだ」と決める、というか諦めるしかない。人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じる。
上記の箇所を引用している時点で、私がいかに毎日、死ぬほど肩に力を入れて文章を書いているかということが、よくよく自分自身で理解できたように思う。
引用した部分を、自分に照らし合わせてみると、センスがよいと言われる文章というものを追い求めて、肩に力を入れ過ぎて、完璧にこだわろうとするほどに、センスが悪くなっていくというジレンマを私は抱えているなと、そんな事実に愕然とした。
意外と、これって、noteを書いたり、創作をしている人にとってはあるあるなんじゃないかと思った。
自画自賛できるほどに、力を込めて書いた力作の記事よりも、「あぁ、ちょっとこれはいまいちな気がするけど、まぁ、これも自分だし、そういうときもあるし、とりあえず投稿しちゃお」みたいなある意味、肩に力の入っていない作品の方が、割と読者からの反応がよかったりするジレンマ。
特に前者のケースで、肩に力を入れて、作品に取り組んでいるときは、何が何でも、より面白い記事を、よりきれいな文章で、わかりやすく、みたいな気持ちが強くなるあまりに、自分らしさとか、自分の文体とか、自分自身の本当に書きたかったことから、たまにどんどん離れてしまっていたりするので、たしかにそういう点から考えると、著者の指摘が明確すぎて、ちょっとショックだったけれど、でもここで気づけただけよかったなとそんなことを思った。
あまり力みすぎず、ゆるっと、まったりと、肩の力を抜いて、ときに偶然性に身を任せながら、自分のありのままの状態を、背伸びせず、自分の実力はそこまでだとある意味、諦めの感情をきちんと内包した上で、創作に取り組む。
そんなマインドセットから、少しずつ、自分の、自分だけのセンスを磨いていこうとそんなことを思って、創作意欲の沸いたありがたき一冊。