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祖父との時間 再掲

「湯たんぽ、お母さんのところに3つ入れてあるから、いらなかったら持ってきて」
祖父はそう言って、自室のある二階へと上がった。



秋が深まり、水分を失った葉がかさかさと掠れる音が鳴る時期から、祖父の仕事がひとつ増える。
湯たんぽを入れて、布団に運ぶ仕事だ。
別に役割分担があるわけではないが、祖父はその仕事を当たり前のようにやってくれている。
祖父の仕事は他にもある。
お風呂を沸かすために石油は必要だけど、冬になるとストーブを使うから余計に量が必要になる。
一年を通して、それを買いに行くのはほとんど祖父だ。
それに加えて、寒さが増してくると、祖父は私たち家族に湯たんぽを入れてくれるのだった。
寒い日には1人2つ。
小さな病気をいくつも身体に背負ってきた祖父は、黙ってその仕事をやってくれる。
2階に運ぶのはやはり80近い身体には辛いから、時々祖父は私に頼るし、私も祖父に「運ぶよ」と声をかける。
祖父が「大丈夫」と言って、自分で2階まで湯たんぽを運ぶときには、「落ちないでね」と念入りに告げる。

23時を回ったころ、母が布団を直しながら、「湯たんぽ、3つはいらないなぁ。暑すぎる。」という。行き場のない湯たんぽが、目的も果たせず冷めていくのはやっぱり悲しいので、私はそれを祖父の部屋に持っていくことにした。
23時はお年寄りにはなかなか遅い時間だとおもう。誰もがそうだと決めつけるわけではないが、祖父はこの頃夕飯を食べて湯たんぽの仕事を終えると、2階に戻ってしまうことが増えていた。

登り始めて数段で左方向に向きを変える階段は、木でできていて、スリッパで踏み締めるときゅっと音を立てる。家自体が地震の影響で傾いているから、いくら若い私だからと言って油断はせず、一段一段確かめるように登っていく。
ラジオの漏れ聞こえる音がして、私は少し安堵する。足を進める毎に大きくなる音は、耳障りな雑音から形を変えて、確かな言葉の集合として私の耳に届いてくるようになる。それは祖父がまだ起きていて、夢の中にいっていないという合図なので、私はやっぱり安心して部屋の前に立ち、ゆっくりと青カビらしきものが生えたドアの取っての端っこを押し引く。
祖父の「どうしたん?」という声が、床の近くから聞こえた。
部屋には電気がついていなかったが、私が大きく開けたドアの外の光が、布団から頭だけ出している祖父の輪郭を浮かび上がらせた。
「湯たんぽ持ってきた」
「いらないなぁ」
「やけどしちゃうから?」
「熱すぎちゃう」

祖父がなぜ、今日だけひとつ分多く湯たんぽを入れたのかは分からなかったが、私は聞こうとも思わなかった。数を数えていなかったのだと思った。祖父は、一応の拒否はしながらも、横になったまま湯たんぽを受け取り布団の中に引き入れた。
「何時に寝たの?」
「たった今」
「それまで何してたの?」
夕飯の後にテレビも見ずに部屋に下がっていた祖父が、そんなに遅くまで1人何をしているのか気になった。
以前は笑点やフォレスタ(歌番組)、BSでやっている外国の映画などをリビングでよく観ていたが、最近はどうも違う。私が以前よりも家を空けているからかもしれないが、それにしても体調でも悪いのだろうか。

「数学の勉強をしてた」

祖父が何の気なく答えたその言葉に、私は少し傾いた部屋の中で思わず目をぎゅっと瞑った。
数学の勉強を続けていたのだと嬉しくなったのだ。
祖父は高校の数学教師で、私が中学生や高校生の頃までは口うるさく私に数学の勉強を教えようとしてきた。私は、正直それを鬱陶しく思っていたし、分からないことは人に質問できるくらいの度胸は十分に持ち合わせていたから、自習や学校の先生への質問、塾での質問などで事足りることも多かった。けれど、なんだかんだ言いながらも祖父がテストの点数を喜んでくれたり、リビングで向かい合って数学の問題に頭を捻ったりした時間は、今となってはかけがえのない思い出だ。あの頃、文句を言いながらも、時に喧嘩しながらも、少しだけでも祖父の想いに向き合えていた自分に感謝している。高校生のころ、迎えにきてくれていた祖父をLAWSONで1時間も待たせてしまったことがある。放課後、数学の問題を高校の先生に聞いていたのだが、あの頃の私は人への思いやりにかけていたと今は思う。
1時間も自分の時間を無為に過ごすはめになった祖父は、私の言い訳を受け入れて、2人分のアイスを買ってこいと私にお金を渡した。



「数学の問題やってたんだ」
「えらいね、ほんとにえらいね」
えらいねという言葉が適当だなんて思っていないが、それでも純粋に尊敬の念がその言葉に変わって気づけば口からこぼれていた。
「(思い出したら書きます)できないからね」
と祖父はきっぱりと祖父自身と私に向けて言葉を送る。

祖父は、還暦を過ぎてから、私と勉強をしたり私に教えたりするために数学をやり直した際に、自身が数学をちゃんと理解していなかったことに気がついたといったことを以前言っていた。私のおかげで勉強しなおせると、感謝の言葉をもらったことも何度かある。
「一生勉強」
という言葉をよく耳にするが、まさに祖父も祖母もそれを体現したような人間だ。
老いていくなかでも、2人は勉強することをやめない。
祖母は新聞のクロスワードパズルと数独を毎週欠かさずやって、溜め込んでもちゃんとやりきっている。「目が見えづらくて」と言って、ガラケーの脳トレをやる頻度は落ちたが、脳年齢20歳を目指して、ブーという音の後には大抵悲鳴を上げるほど本気でやっている。

若かった頃の勉強に対する姿勢に対して、祖父は今も悔いていて、それを取り戻すために今も学び続けている。私が大学に入学して、もう数学を学ぶ機会がほとんどなくなっても。
未練がましいという人がいるかもしれないが、私はかつての後悔と対峙している祖父が、とても人間らしくて誇らしい。私も小さなことでたくさん後悔して、それをいつまでも引きずっているような人間だが、それに向き合い続けることは逃げ道じゃないと分かるからだ。逃げたことも、誰かを傷つけたことも消えないけれど、その過去は過去として丁重に扱ってあげたらいいのだと思う。


そんなことを思って

なんだか泣きたくなってしまった私は、今なら祖父と素直に話せると直感し、風呂上がりで濡れた髪を気にしながらも、そのまま薄暗がりの部屋に留まって静かに呼吸を続けた。
祖父は、「お年玉の用意をしないと」と言って、お年玉には高すぎる金額を口にしたが、私は「そんなにいらないよ。いつももらってるでしょ。」と言う。大学が対面授業になり、出かける機会も増えたこともあるが、ここ一年で、もらうお小遣いが以前より増えていた。私はそれを嬉しいと思うよりも、祖父や祖母が自身の身体に不安を感じて、「あげられる時にあげたい」と感じているのがわかって辛かった。だから、出かけた際には2人の好きなお菓子やおかずを買って帰ったり、欲しいもののお使いをかって出ることが増えた。

祖父や祖母が老いていくことを恐れて、いつか死んでしまうことを恐れて、私は実家から大学に通い続けている。
コロナ禍で引越しのタイミングを逃したこともあるが、一緒にいることで得られることがたくさんあるから、それを手放す勇気がない。

縁日で、射的が好きな私に祖父は、「射的が好きなら射的なセットが3000円くらいで買えるんじゃないか」と本気か嘘か分からない、しかも3度ほど聞いたことがある台詞をまるで初めてのように言う。私は、「家で景品を用意したってしょうがないよ」と至極真っ当なことを言い、祖父も「それはそうだ」と同意する。本気でそんなことを考えていたのなら、祖父はとてもかわいいと思う。
それから大体射的の話をする時には、大抵祖父の父親が軍人だった話を嬉しそうにして、いくつになっても人は誰かの子どもなのだと言うことを再認識したりする。祖父がいうには、私が射的が得意なのはその血のつながりゆえらしい。

その後、祖父が高校時代に弓道をやっていたが全然当たらなかったことや、それを辞めてからは少しの間合唱をやっていたことを聞いた。
同居しているのに全く知らなかったことが奇妙でならず、私は祖父の何をこれまで見てきたのか不思議に思った。これから、もっといろいろな話を聞かないと、きっと後悔するとも思った。

私の髪がいよいよ冷たく乾き始めたころ、祖父はおもむろに、「一緒に将棋をしよう」と言った。
「できるの?」と聞くと、
「できないよ」と言った。
「うちにおばあちゃんの買ったやつがあるよ」
というと、
「ほんとに」と嬉しそうに笑った。
「できるの?」と私がしつこく聞くと、
「できるよ」と祖父は当たり前のように答えを変えた。
「言ってることが違うよ」というと、
「できるけど、進め方がわからない」と祖父は言った。
「NHKの将棋番組を見ながらやろうよ」
と私は提案した。
祖父はそれに同意した。
そして、「もう寝よう。また明日話そう」といった。私は、「また明日話そう」という言葉に、なぜだか心が躍るような思いがした。
胸を割って、格好つけずに話せたこの贈り物のような時間をまた作ろうと言われている気がしたのだ。

いつかの終わりを想像して、胸が痛む日もあるが、ただひたすら今を誰かと分け合う時間を抱きしめていきたいと思う。そんな日が続くことを願う。


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