"人のせい" にしているの、だあれ?
「片付け終わった?──そう。
じゃあ、後は、床に落ちてるの全部捨てるよ」
パパは、達成型。綺麗好き、整理整頓が得意。
少々荒い声かけと共に、ガッツリ、子どもたちに『片付け』の習慣を叩き込んでくれる。
子どもたちは、そんなパパの顔色を確認しながら、「捨てられる」恐怖も相まって、そそくさと体を動かし、おもちゃや荷物を"移動"させる。
大体は、押入れの上への移動。
子どもたちの言い分は、
"また使うから"
"だってどこへしまえばいいか、分からないし"
うん、この感覚、ママも持ってるよ。
直ぐ取り出せて、使えるのって便利だもんね。また時間がある時、おもちゃ整理すればいいか。
そういう甘さが、私の中からニョキッと出てきて、"何も言わない"の行動へと繋げる。
「きったねー。押し込んだだけじゃん」
パパは、"片付け終わった"と進言された、畳の部屋を見て、吐き捨てる様に言いながらも、
「これは、いるの?いらないの?」そう子どもたちに問いかけ、更にキレイを生み出そうとしてくれていた。
そんな、パパに、私は、
頼っていた。
いや、任せていた。
いや、依存していた。
──それは、ほんの小さな、三角△の1つ。
それを、見ようとしなかった。
向き合おうとしなかった。
得意な方が、やればいいのでは?
そんな風に思っていた。
放置したものは、
気づかぬ間に、日に日に大きくなり、
私の中に巣食うものが、
突如、顔を現した。
そう、それは、プレートの沈み込みのように
ひずみが生じながら、圧力、圧力、圧力──、
これがかかって、
自身が歪み、耐えきれなくなった時に、
バツンッと、跳ね上がり、うねりを伴った荒波となって押し寄せる。
そう、『怒り』、となって。
◇
新月の前日の夜、
寝る前に、息子がいつもの「片付けしなきゃ」モードに。
「愛ちゃん、片付けするよ!」
娘は、「(自分の分をちょろっとやって)自分の分おわったもーん。お兄ちゃんがやればいいでしょ」と、軽口を叩く。
すると息子は、顔を歪め、拳を握り込みながら、吠える。涙ぐみ、ギリギリと歯を鳴らす。
「なんで、俺だけやらなきゃいけないの?!俺は、愛ちゃんの分もやってあげてるのに、お礼も言ってくれない」
私は、洗い物の手を止め、声をかけに行く。「2人とも、お片付けはじめたんだ。よくできてるね!」
──本当は、全然進んでいなかった。心のザラつきを多少感じながらも、言葉にし、自分を誤魔化した。
こうなったらいいな、という期待も込められていたんだと思う。
そう、基本的には、子育ては、ポジティブにしていきたいところなのだが。
分かっていたけれど、分かっていたけれど──。心の違和感があるままに、これをやったら無謀なことを。分かっていたけれど。
体調も芳しく無く、ちょっと無理をして、ポジティブにもってこうとしてしまった。
これは、"地雷"。
そう、後からわかるタイプの。
私が、台所に戻り、再度洗い物を始めると、また、2人がワァワァ言い出した。
喧騒は、激しさを増し、
「──がこうやったから悪いんだよ!」
「──がすればいいでしょ!」
「──のせいだ!」
「──もう知らない!」
「──なんか、キライ!」
否定的な、言葉の応酬が続く。
それを拾い上げ、聴いていた、私の耳。
洗い物の水音、食器が重なり合う音など、つゆ知らず。
印象的に、2人の否定語がクローズアップされ、私をズカズカと刺してくる。
なんども、なんども。
──"プッツン"
私の中で、"切れた"。
「もういいよ!やるなよ!片付けなんか。やりたくないんでしょ、なんでやる必要あるんだよ」
バババッと、口をついて、スルスルと出てくる、心の怒号が言語化された音。
自暴自棄。否定。拒否。盲目的。
すると、普段、あまり本気で怒ることのない私が怒ったので、
2人は驚いて黙った。
なんとなく、心地よさを感じてしまった。
私の声を聞いてもらえた、
そんな変な安堵なのか。コントロール欲が満たされたのか。
2人とも、その場から口々に告げる。
「ごめんなさい」と。
しかし、
このくらいで、収まるはずがない。
私はストッパーをかけるつもりはなかった。
自然に口を継いで、伝える方を選ばれた言葉達が出てくる。
「2人とも、人のせいばっかりしててさ!なんなんだよ!ママだってさ、この洗い物、なんでママばっかりやってるの、って言いながらやっていい?!ねえ!」
職場で習ったことのある、アンガーマネジメントなんて、このときは少しの知識も引き出しから出てこなかった。そんなものが"ある"なんて、思い出そうともしなかった。
本能のままに、感じるままに、私は、発することを選んだ。
なぜか……その時に、出す必要のある、"必要のある怒り"であることに、頭の隅では気づいていた感覚だった。
ガチャッ
その時、お母さんが、忘れ物を取りに来た。
私は、構わず続けた。
「ママだって、2人がお互いに言い合ってるの見てさ、嫌な気持ちなんだよ!」
血相を変えて、子ども達に文句を叩きつける姿。
お母さんは、私のそんな姿に驚いたのか、
状況を理解しようと、子ども達に尋ねていた。
私は、ガチャガチャと洗い物を続けた。
「ほら、お母さんに、謝りな」
お母さんが、子どもたちの背中を押し、私に謝罪するよう、優しく促す。
2人は、促されるまま、
私に向かってコトバを紡ぐ。
息子が精一杯、何度も何度も、ごめんなさいと言って、ヒックヒックとしゃくりあげ、大粒の涙を流していても。
娘が、ごめんなさい、もうしません、と言って口をへの字にして。これが、涙を、感情を堪えている表情と分かっていても。
私は、皿洗いをする手を止めなかった。
沸き起こる感情を、皿に対する、ガチャガチャとした粗暴な扱いで現した。
「もういいです」
「片付けなんかしなければいい」
「人のせいにばっかりして。どういうつもりなんだよ」
そう言って拒絶した。
跳ね除けた。
差し伸べられた手を、思いっきり叩いた感覚。
受け取れない。受け取りたくない。
「ごめんなさい」だ?
直ぐに、それを受け取ったら、私が感じている、この感情の価値はどうなるの?
嫌だ、許さない。許したくない。
もっと、もっと、感じてよ、
あなた達がしてきたのは、重大な罪なんだ、ってことを。
ねえ?今日だけじゃないよね?
いつもいつも、片付けの度、いや、それ以外でも、お互いを罵ってたよね?
否定する言葉を言ってたよね?
わかってるの?
その言葉を聞くたびに、その度に、ママを傷つけているってことを。
感じて!
感じなさい!!!
足りない、まだ足りない!!
許してやるもんか、直ぐには。
本当に分かるまで。
どうせすぐ、忘れるんだ。いくらその時、ごめんなさいって謝ったとしても。
いつもそうだ。
次の日にはケロッとしやがって。
ママだって、ママだってさ、ツライんだよ。2人が、喧嘩してるのをみるのが嫌なんだよ。
暴走する赤黒く渦を巻く感情と、薄く淀んた水色の感情が入り混じる。
伝えたかった。分かってほしかった。
足が太ももからジンジンと熱くなる。
喉元が鈍く締め付けられる。さほど熱くもないのに、ボウっとした空気感が、私を纏う。
「もう寝な!」
目障りだ、とでもいうように、吐き捨てるように言うと、
子ども達は、寝室のある2階へと階段を登っていった。
ハァー……
ゴゥンゴゥンゴゥンゴゥン……
やっと回し始めた食洗機の音を聞きながら、
自分の心に目を向けた。
子どもたちに、思いっきりコトバを叩きつけたな……
私、こんなに溜まってたのか?
全然気づかなかった……
どうしてこんなに、心が反応したんだ?
応えは、直ぐ、自分の内側から帰ってきた。
──『"人のせい"』
──そうだ、これに反応したんだ。
あれ──、今回の構図、どこかで見た。
ふと、頭をよぎったイメージがあった。
洗い物をしながら、怒っている私のお母さん。その背中を眺めながら、どう言おうか、なんと言えば許して貰えるか、悩み黙りこくる小学生の私。目配せし、「あやまっときな」の合図を送ってくる父さん。
──私、お母さんと同じことしてる。
お母さん、私達に怒ってたの、自分の思いを分かって欲しかったのかな。私達が嫌いだから、じゃなかったのかも……。
あの頃の自分には見えていなかった、当時のお母さんの気持ちが、ほんの少しだけ。味わえた気がした。
昔のお母さんと私達に思いを馳せていると、タンタンタンッと階段を降りてくる音がした。
息子が、私に「これ読んで」と、何かを手渡してきた。
私は、濡れた手を、自分の洋服の裾で簡単に拭き、四つ折りにされた、紙を受け取った。
息子はすぐにまた、2階へと上がっていった。
手渡された紙の表には、「おかあさんへ」と書いてある。
開いてみると、こう書かれてあった。
「おかあさん、きょうはごめんなさい。
こんどから、れいぎただしくいきていきます」
フッ──。思わず顔がほころんでしまった。
「片付け」「人に対する態度」を、『れいぎ』と表現するとは。
ところでこの手紙はさっき書いたの──?
思いを表現するの、早いし、上手だな。私は、お母さんに怒られた時、納得しないまま、形だけ「ごめんなさい」を言ってたよ。
息子への思いが出てきて、少し体感覚が和らいだ。
少しして、タンっと音がした階段の方に目をやると、2階に戻っていたハズの彼が、いた。
また台所に来て、紙を手渡し、
直ぐに戻っていった。
「おかあさんへ
おかあさんが大大大すきだよ。
またあの顔にもどてね。」
──やだ、私。
そんな般若みたいになってたのかしら……。
この、愛くるしい息子の手紙に、
一瞬にして、心が解された。
──私には、愛が手向けられている。
小さな我が子が、ママへと、愛を伝えてくれている──。
私は、また、
愛を拒絶しようとしていた。
私から、「愛を与える」ことも、意識できなくなっていたんだ。
ねえ、私には、既に、"ある"のに、ね。
「おいで」
声を掛けると、階段で
様子を伺っていたであろう息子が
ひょっこり姿を現した。
すると、後ろから、娘も出てきた。
少し、緩んだ顔の私を見て、
2人は、ァ゙ーンと、また大粒の涙をボロボロとこぼしながら、泣き出した。
私は、2人を抱きしめた。
分かるよ、安堵の涙、だね。
ごめんね。言い過ぎたね。酷い態度をとったね。我慢させていたね。
涙でグチャグチャになった2人。
憑き物が晴れたような私。
ここで、次への方針を。
そうして、2人に問う。
「ねぇ、これからどんな風にすればいいと思う?」
──「ちゃんと片付けして、ピカピカにする」
──「人のせいにしない」
「そっか。じゃあさ、ピカピカになったら、どんな気持ちになる?」
──「嬉しい気持ち」
──「ピカピカな気持ち」
子ども達は、自分で、自分のありたい姿を描けている。
子ども達も、きっと、今までつらかったんだ。
「ねばならない」に、縛られていたんだ。
「怒られたくない」とネガティブ発信の行動として片付けしていたんだ。
パパもきっと、つらかったんだ。
「俺が片付けをさせなきゃ」に、縛られていたんだ。私が、全然取り組もうとしなかったせいで。だから、高圧的な態度になっていたんだ。
改めて考えると。
『私が』が主語として、出てくる原因があった。
私が、片付けに対しての肯定的な価値づけ、声かけをしてこれなかったからだ。自分が片付け苦手、を握りしめてしまっていたんだ。
それに、気づいた。
私達3人は、このあと話し合い、
「人のせいにしない」
「嬉しいキラキラな気持ちで片付けする」
「ママも一緒に、かたづけする」
とこれからのイメージを定め、皆笑顔で、眠りについた。
布団に横になり、スゥースゥーと
規則的な寝息のハーモニーを聴きながら、ぼんやりと今日のことを思い返した。
私は、今まで、幾度となく、様々な場面で。
「人のせいにする」「いやいや片付けをする」2人を、無理して見ないふりしていた。
だから、「怒りの感情さん」、今回、あなたが思いっきり出てきてくれたんだね。
本当は、
2人がどうこう、じゃない。
『人のせい』にしている私のことを、
『私自身』が、許せなかったんだ。
そろそろ、向き合う時だよ、
そう教えてくれていたんだ。
小さな△が、
いくつもいくつも積み重なって、
大きなフラクタルとなって、氷山のように、顔を現して来ていたんだ。
物が見当たらない時は、"人のせい"。
誰かに責められたら、"人のせい"。
自分の自由がないのは、"人のせい"。
家の空気が悪くなったら、"人のせい"。
子どもが喧嘩をしたら、"人のせい"。
──そうだ。実際に起こる事象のほとんどを、
私以外の、「人」や、「環境」のせいにしてきた。
そうして、自分を守ってきたんだ。
『2人の喧嘩、見せつけられてみなよ?
ママは、凄く嫌な気持ちだよ。』
そう、子どもたちにぶつけて、
"子どもたちのせいで、私は怒ってるんだ"
と正当化して。
誰だよ、"人のせい"にしてるのは。
──紛れもない、『私』だよ。
私が、"人のせい"にしてるんだよ。
振り返ると、
私は、ずっと、"人のせい"にしてきた。
私は、ずっと、『お母さんのせいで、私は心を閉ざしたんだ』とか、
『お母さんのせいで、金銭管理ができないんだ』とか、
何かにつけて、"お母さんのせい"にしてきた。
自分の現状の原因を、お母さんに求めて。
そうして、安心を感じてきた。
「だから、こう(このくらい)なんだよ」
──ねえ、もう、やめない?
──ねえ、もう、お母さんを理由に、自分を小さく見積もるのは。
──ねえ、もう、お母さんを理由に、自分の自由を制限して、自ら檻に入るのは。
──ねえ、もう、お母さんを理由に、自分の未来を大きく描けない、受け取れないというのは。
──ねえ、もう、お母さんを悪く言って、その悪口が自分の耳に入るのは。
──ねえ、もう、自分の不平不満で、人を不快にさせ、自分の評価を下げ、チャンスを逃すのは。
──ねえ、もう、原因を「外」に求めるのは。
いい加減、やめよう。
子どもは、鏡だ。
これまで、「投影」してくれて、ありがとう。
君たちも、つらかったよね。
ママ、
もう、"人のせい"にするの、
やめる。
私は、直近で向き合うテーマを決めた。
いや、むしろ、これは生まれる前から定まっていたのかもしれない。
「人のせいにしない。
自分の人生を、自分の責任のもと、自分で、生きる」
◇
明くる日。
カレンダーを見ると、今日は、"新月"。新しい事をスタートするのに最適な日だという。
夕方、学校や園から帰ってきた子どもたちと、送迎の車の中で、暮らしを振り返った。
朝、起きるのが遅くてバタバタしてしまったこと。
昨日の夜、ゴタゴタがあって、寝るのが遅くなったこと。
今日は早めに寝て、朝早く起きられるようにすること。
片付けは、「嬉しい、楽しい、キラキラな気持ち」でやること。
それを共有し、都度、声を掛け合って
20:30のゴールを見据えて協力をした。
すると、どうだろう。
全てが、上手くいった。
お風呂に入ったとき。
娘の「オンセンみたいだね。きもちいいね」の言葉に癒され、「また温泉いってホテルに泊まりたいねえ」と笑いあった。
ご飯を残さず食べた子ども達に対して
「食べてくれてありがとう」と、私は素直な思いを、言葉で伝えた。
"片付け"は、3人で行い、
気張らずに、綺麗に、できたことを一緒に喜んだ。
私はわざと、こんな事も言ってみた。
「あれ?片付け、今日は喧嘩しながらやった?」
──「やってないよ!」
「喧嘩しなくても、ピカピカに片付けできたってことだよね!気持ちいいね。」
──「うん!」
子ども達の笑顔から、できた!喜びが伝わってきた。
そして、今まで、22時を超えることもあった就寝時間。
今日はなんと、20:30までには、全てが、終わっていた。
意図したことが、
心の在り様が、
ここまで、現実世界に直結し、
現れる。
だから、この世界は、面白い!
──「全ては、"思い"から」
私は、
とんな世界でも、私自身が描き、現実化させられる。
そんな体感覚を、
自信と言い換えられるような、それを、
手にすることが、できた。