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疲弊した過剰労働社会へのカルテ:ビョンチョル・ハン『疲労社会』 読書レビュー

疲れ切った社会


世の中が疲弊している、という感覚は、いま多くの人が共有しているように思う。

 「あいつは仕事ができる、あいつは仕事ができない」という擦り減った話題ばかりが繰り返されて、全員が他者からの視線や評価に恐々として日々を送る。やたらと将来への不安を駆り立てるような言説が巷に溢れかえって、積み立てなんちゃらというような金融商品を押し付けられては実態のないマネーゲームの一端に巻き込まれる。「自分らしくあれ」とか「君ならまだまだ、もっとできるよ」などという言葉に踊らされて、成功や自己実現という定義も曖昧な言葉に向かってベルトコンベアーの上を走り続ける。

 通勤ラッシュの地下鉄に乗れば窓には灰色の顔が延々並んで映り込み、対照的にSNSのフィード画面はキラキラした特別な日常で彩られる。みんなが心のどこかで、「こんな社会、こんな生き方、なんかちょっとおかしくないか?」と思いながらも、出口を探そうとすればその瞬間に生存競争から振り落とされるようで、身動きが取れないまま社会の片隅にひしめき合う。

 どうしてこんな社会になったのか。どうしてこんな状態が続くのか。その核心をグサリと突き刺すのが、ビョンチョル・ハンの『疲労社会』(横山陸 訳・花伝社)だ。読めば読むほど、自分が「疲労社会」の住人であることを納得せざるを得ないような気持ちにさせる。ここに描写された「能力の主体」という現代人像が、自分自身にも周囲のあの人やその人にも真っ直ぐに繋がってしまう、あまりにもリアルでビビッドな一冊だ。

 著者のビョンチョル・ハンは韓国に生まれ、ドイツで哲学・文学・神学を学び、現在ではドイツ哲学界の騎手と呼ばれる。そのせいもあってか、ニーチェやアレント(ともにドイツ出身)の言葉や論を効果的に引きながら、彼らが分析した近代社会と、後期近代もしくは現代と呼ばれる今の社会とを巧みに比較することで「現代の社会が陥っている病理」としての「疲弊した社会」の実態をあぶり出す。


規律社会から能力社会への移行

 特にフーコー(こちらはドイツではなくフランスの哲学者)が分析対象とした近代の「規律社会」と対比して、現代を「能力社会」と設定し分析した観点には唸らされる。フーコーは1926年から1984年に生きた。ちょうど第二次世界大戦の激化と終焉を経験し、人類が宇宙に向かってロケットを発射し始めた時代。フーコーが『狂気の歴史』を世に出した同じ年に、ガガーリンが「地球は青かった」と呟いた。まだ全体主義の記憶も生々しく、米ソが国家の威信をかけて睨み合う傍で第三世界が雄叫びを上げる。その頃の社会は、「否(ノー)」という禁止の否定性が象徴する「規律社会」だった。そこでは、「すべき」という強制の言説が社会を規定しており、そこの住人は「従順な主体」として社会に参画していた。このような社会は、人々に「従順な主体」であることを求めたが故に、逆説的に狂人や犯罪者という概念を生み出していった。これがフーコーが明らかにした近代社会の姿だった。

 これに対して、ビョンチョル・ハンは、現代は「できる」という肯定性が象徴する「能力社会」になっていると言う。能力社会では人々は自分が禁止や規律から解き放たれて自由になったと錯覚し、自分自身が自分自身の「経営者」となる。そこには「自分自身になること」や「自分自身にふさわしい存在になること」を義務付ける命法が働いており、人々は常に「理想的自我」と、つまり理想とする自分自身の姿と、果てなき競争を繰り広げる。自分自身を追い越そうとして倒れるまで自分自身と競い合った先に待つのは、虚脱感だ。それが昨今よく耳にする「燃え尽き症候群(バーンアウト)」の正体。このような社会では、自己実現を目指すことはつまり自分と自分との競争に身を投じることであり、自己実現は自己破壊と表裏一体の関係にある。言い換えれば、人々は自分自身の経営者として自分自身から搾取を行っているのであり、この自己搾取こそが過剰な疲弊の要因にある。

 恐ろしいのは、私たちが「自分の意思」でこのような生き方を追求してしまうことだ。そこには、フーコーやアレントが見たような絶対的な他者からの強制力が働いているわけではない。むしろ、「できる」、「Yes, I can.」という前向きで希望に満ちた言葉によって、私たちは自分自身を追い立て追い詰め、理想の自己と現実の自己とのギャップから自虐に陥り、ある日ぷつんとバランスを失う。

 規律社会から能力社会への移行は、どのように起こったのか。そこには、やっぱり資本主義経済が作用していた。生産性の際限ない向上を追い求める資本主義経済においては、「すべき」という否定性による規定は一定水準を超えると成長を阻害するようになる。つまり、工場労働型できっちり管理され統率された生産活動によって実現される生産性には限度があり、その先にも成長を続けたい場合には、今度はむしろ「できる」という肯定性で次々と能力を発揮するような能動的で活発な人間が歓迎されるようになる。これは意識が高く社会的地位も高いホワイトカラー労働者を思い浮かべると、しっくりくる。一流ファームのコンサルタントなどは、自分の「できる」に対する篤い信仰心をエンジンにして、それを証明すべく、自らの意思で積極的に能力を供給し、次々と「成果」を生み出していく。さらに彼らは自分の現状に満足するということは決してなく、常に新たな能力開発を自分に課すのが常態だ。

思考ができない「機械人間」


 ここでビョンチョル・ハンが指摘する更に面白い点は、このように肯定性が過剰になり否定性が欠如した状態では、思考は計算へと変質するということだ。これによって、人間は能力を発揮して成果を生み続けるだけの「機械人間」となる。それはあたかも、コンピュータのように、疑問を呈したり反発したりすることなく淡々と多くの情報を処理し続けるだけの人間の姿だ。

 否定性の不在と肯定性の過剰には、グローバリゼーションも一役買っている。グローバル化で世界中の同質性が高まり、免疫機構による排除の対象となるような「他性」が喪失したことで、同質性の高すぎる空間の中で過熱状態(オーバー・ヒート)が起こり、人々の自我が焼き切れていく。それが社会を覆い尽くしている「疲労」の実態だった。

疲労社会への処方箋

 資本主義経済とグローバリゼーションが能力社会を生み出し、そこでは人々が自己搾取によって機械人間と化している。そうして過剰な疲労が蓄積し蔓延しているのが、現代社会。なんとも救いようのない話だけれど、不思議と納得感がある。

 こんなしんどいサイクルから、じゃあどうやって抜け出せばいいのか。『疲労社会』は一応そこのところにも、ちゃんと提言をしてくれている。方法は大きく分けて3つだ。

 その1、「観想的な生」を送ること。これは、晒される刺激全てにいちいち反応するのをやめて、長くゆっくりとした眼差しで見ることを意味している。観想的な生では追ってくる刺激に抵抗することができ、そこには「否(ノー)」と言える主権的行為が作用する。すでにあるものを淡々と持続させるだけではなく、そこに何かを生み出そうとするのであれば、中断という否定性が必要で、「躊躇すること」が必要なのだ。この躊躇するという能力を持たない人間は、コンピューターのように愚鈍であり、手を休めることができない機械そのものになってしまう。

 その2、自我の締め金を緩める深い疲労を手に入れること。能力社会における疲労は、孤独な疲労だ。これに対して、深い疲労というものは、自我を開いて、世界へと浸透させるような疲労。それは労働する手がまとう疲労に対して、遊ぶ手がまとう疲労のような、別に何かを掴み取ろうとするわけではないものだ。遊び疲れた体をベッドにだらりと横たえた時に感じるような、自分の輪郭が溶けて周囲の環境やものと融合していくような感覚、そういった疲労こそが、創造的な「無為」を実現し、インスピレーションの源となる。

 その3、合間の時間、遊びの時間、無為を心がけること。何かを為すためという目的から解放され、自らの気遣いから解放される「無為の日」や「合間の時間」こそが、自我の境界を緩め、同一性(アイデンティティ)の締め金を緩め、インスピレーションを与えてくれる。それは労働のない時間であり、「遊びの時間」だ。このような時間の中では私たちを苛むハイパーアクティブな活動は影を潜めて、長くゆっくりとした眼差しの中で、平静さ(ゲラッセンハイト)を手に入れることができる。

 激ムズなように見えるけれど、その実、結構シンプルだ。

 ちょっと手を止めてみる。中断を良しとする。毎秒与えられる刺激を受け流す。長くゆっくりした眼差しで見てみる。何も為さない時間を持つ。遊びの時間を通じて、良い感じの深い疲労を自分に与える。深い疲労に身を浸して、アイデンティティを緩めてみる。

 そんなことをしたら、ちゃんとした大人として胸を張っていられないんじゃないかって? そんな風に不安に思う時のために、ビョンチョル・ハンはニーチェのこんな言葉を引用してくれている。

 「きみたちはみんな、激しい労働を好み、また速いもの、新しいもの、見慣れないものを好む。ーきみたちは自分自身に耐えることができないのだ。きみたちの勤勉とは逃避であり、自分自身を忘れようという意思である。もしも、きみたちがもっと生を信じているならば、きみたちはこれほど刹那に身を任せはしないだろう。しかしきみたちは待つために十分な中身をもち合わせていない。ー怠けるためにさえ、十分な中身をもち合わせていないのだ!」

ニーチェ『ツァラトゥストラ』

 
 さ、ここらでちょっと、一休みしましょうか。

2022.3.26

<おまけ>
『疲労社会』の読書メモはこちらに置いています。実際に本を読まれる際に、もしご参考になればご活用いただけたら嬉しいです!


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