とりあえず肯定してみる
この世の中、みんな生き方の癖を抱えていると思います。
お国の命令順守でなくても対人的には最小限の接触しかしていないわたしから見ると、皆さん表面上はとても上手く生きていらっしゃるように見えるのですが、内面では色々あるのかなとも察したりしています。
皆さんはそんな内面の平和を乱す出来事へどういった姿勢を取っていますか?
対人ストレスのさまざまな形
思ってもいないことは口にできなくて、そのせいで対人的な摩擦で苦労したり。
逆にその場で望まれることを読みすぎて、いつも誰かの期待に応えすぎて、どこにも本当の本心を知る自分がいなくなっていたり。
口を開けば誰かの悪口、とりあえずなにか否定しないと気が済まないのかと思うような言動の人がいたり。
周りはみんな素晴らしくて正しいけれど、いつも自分は悪くて、おかしくて、ダメで、迷惑をかけてる・・・そんな自分否定マインドに苛まれていたり。
そんな自分も他人も大嫌いな人間全否定だったり。
色々、自覚していてもしていなくても、本当に色々あると思います。
以前は違うタイプで、いまはこっちってこともあると思いますが、この「否定・肯定」というポイントが鍵になると思っています。これについてわたしの体験を交えて綴りたいと思います。
理不尽な怒りと否定の意識
子どもの頃、わたしは妹たちによると「要領が悪い」子どもでした。うまく立ち回れば怒られないのですが、父を刺激するような余計なことを言って怒られているように見えたそうです。
勿論当の本人には自覚がありません。「なんでわたしばっかり怒るの!?」とこちらも怒りに燃えておりました。
「なにも悪いことはやっていない」
「父が目くじら立てて勝手に怒っている」
それがわたしの正直な気持ちだったのです。そんなある日、父が怒ってわたしにこんなようなことを言いました。
「いいか、お父さんが怒っているというのは事実だ。人が怒るっていうことには理由があるんだ。何もなかったら怒らない。」
当たり前の理屈ですが、わたしはそれを聞いたときなるほどと深く納得したのです。
確かに、何はともあれ父は怒っていると。わたしがなにかやったとかやらないとか、自覚の有無にも関係なく、とりあえず相手は怒っている。そういう事態は起こりうるのだな、と。
それまで、父の怒りの理由に正当性がないことを主張したくて父が怒っている事実そのものも否定するような心でいたのです。
わたしは悪くなくて、父が勝手に怒っているのだからその怒りは無効だ、無いはずのものだというような感覚です。
それぐらい必死で自分を守らないといけないような、孤独感や被害者意識もわたしをそうさせていたと思います。
でも父の言葉をきっかけに、初めて「自分と父のどちらに正当性があるか」「どちらがいい悪い」の話とは全く無関係に、単にそこに「怒り」が存在するということを認めることができたのです。
そのことがきっかけで少し世界の見方がフラットになったかもしれません。
無かったことにはならない
大人になると人との密な関りが減り、表立って誰かと衝突することは殆どなくなりました。
でも心に波風が立つことがあります。
誰かの発言や行為を不快に感じたり、傷ついたりすることが折に触れてあります。
関わらなければ、黙っていれば過ぎ去ることです。
でもそれは自分自身の深いところからのちょっとしたサインだったりするのです。
声を上げているなにかを無視し続けれると、それは深いところで蓋をされたまま腐っていきます。
腐ったものがどこからともなく悪臭を放つように、生活の中でなにかうまくいかない感じになったり、満たされない思いや空虚感などになって表れてくるのです。
自分がなにかに反発したり否定している気持ちを内側に感じたら流さないで気づく。そして向き合う。それがすごく大事だと気づくようになりました。
相手を認めることは負けじゃない
嫌いな人、嫌いなこと、受け入れ難いこと。
自分の内側が拒絶したがる何か。
それに対して内側では色んな反応を引き起こします。
自分が正当であることを主張したがったり、相手を貶めようとしたり。相手に非があるように思いたがります。
でもそんな時自分の気持ちに起きている感情をつぶさに見ていくとどちらがいいとか悪いという正しさの天秤を超えた純粋な想いが見えてきます。自分が抑圧していたもの、それをストレートに表現していることへの羨望や嫉妬などが見えてくるのです。
そのための一歩が相手を否定する世界から抜け出す、です。
不快感を覚えている自分自身もよしとする。自分が間違っているからそんなネガティブなことを思ってしまう…そんなふうに考える必要はないし、今ある感情や思考も無理に変えようとしなくていい。
でも相手も間違ってない。否定しない。ただ自然な流れがあってそうなっている存在。共感できないことがあっても間違いではないですよね。
内面を見ているうちに次第に共感とは言わなくても同じ願望があることに気付きました。それについての振る舞いが、表現の選択が異なるのだなぁと。
自分がしなかった選択を見せてくれているのだとある日気づいたのです。毎日悩まされて、ずっと自分の気持ちを見つめ続けて気づけたことでした。
相手がマナー違反を起こしていたり、大きな場合には法を犯していたり、大勢がその人物に否定的な場合にはとりあえず「肯定する」「否定しない」ということが難しいかも知れません。
個人的に恨みがある場合には、相手の肯定は「負け」のようで抵抗を感じるかも知れません。でもすぐ色んな考えや感情に潜むカラクリに気づくと思います。
わがままも悪いことじゃない
話が逸れるように感じるかも知れませんが、衝撃を受けた言葉に「わがままは別に悪くない」というものがあります。
子供の頃から親に我儘だと責められた経験を持つわたしには本当に衝撃でした。
「わがままは悪くない。」これには続きがあって、「ただし相手のわがままも認めなければならない」というのが全容です。
自分を否定しない。相手も否定しない。
自分も相手も是とする。
これに似ていると思いました。
そんなことが本当に成り立つのか、どちらからも生温く目を逸らして生きることになるんじゃないか?
今悩まされている人はそんな風に感じるかも知れないと思います。でも気になったら、興味があったらまず「否定しない」というのを試してみてください。
歩き出せばその道のガイドになるものが自然と人生に現れてくるはずです。気がつけばずっと楽に生きられている自分に気づいて感嘆すると思いますよ。
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お写真はコノハさまよりお借りしました。
ありがとうございます。花びらだけ・・初めて見ました。