左手に明晰さ、右手には愛を~それがわたしの生きる道
「真実だけがほんとうに人を自由にする」
Knowingにいたとき、ハッと救われたことば。
いまはノウイング(現ノウイング・ウェイ)を離れ、ブッダプログラムを主宰されているつうりさんのことばだ。
このことばに出会ってから、昔ほど自分が口にした言葉について葛藤しなくなったように思う。
HSPだとか、アダルトチルドレンだとか、エンパスだとかいう特性を持った人は周囲の関わる人たちの気持ちに敏感だったり気にしすぎだったりで自分のありのままの気持ちが抑え込まれたり、偽られたり、見失われたり。
簡単にそんなことが起きてしまう。
口にしたら相手の反応を見て葛藤し、口にしなくても後悔したりもやもやしたりする。
でもいつからだろう。
そんな払っても伸びてくる蔓のようなものから自由になっていた。
わたしには会話するときの意図がある。
大抵のとき、わたしはいつも相手に幸せになってほしい、笑顔になってほしいと思っている。
少しまじめな話をしているときはどんなことばもいつも相手にとって最高の幸せに導くものになるように。セッションのときと同様、相手の資源となることを意図している。
わがままに生きているわたしだけれど、そういう意味では奉仕の人生を選択している。
意図が明確なら、結果はあるべき場所に導かれる。葛藤さえ邪魔しなければ。
だから、口にした言葉がその瞬間どんなに相手を傷つけたように思えても、その時の自分の意図に対して明晰でいられたなら、時を経てでも相手が本来求めていたものへとたどり着く助けになっていると信じられるようになった。
最初のことばを聞いたときに腑に落ちて、まるで元から知っていたことを当たり前にそれでいいんだよと言われたような、そんな「そうか」という感覚を得たように感じた。
同じような感覚で降りてきたことばを伝える。
そういうときのことばは、きっと誰も本当には傷つけない。
傷つけないのと苦しみがないのは同義ではなく、やっぱり嵐は起こるのだけれど、嵐が過ぎた後の大地だからこそ芽吹くものがある。
だからこそ。
どんな瞬間も明晰でいたい。
自分の意図を曇らせていないように。見失って知らず背を向けていないように。
自惚れと傲慢さで、これが魂に切り込むメスなのだと言わんばかりにナイフを振り回すような傍若無人ぶりをわが身には許さぬように。
左手には明晰さを。右手には愛を。
ちょっと疲れ気味の今日の自戒。