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播磨陰陽道

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#怪談

播磨陰陽師の独り言・第三百六十九話「目が悪いので」

播磨陰陽師の独り言・第三百六十九話「目が悪いので」

 私は視力が弱いです。左目は手の届くところにしかピントが合いません。右目は見ているところの中心部が歪んで見えています。昔はかなり見えたんですけどねぇ。今は、こんな感じです。
 当然、人の顔を見分けることは出来ません。誰かの顔を見ると、中心部がぼやけて見分けられないのです。誰の顔も、ただの肌色の塊にしか見えず、かなり困ります。最近は、皆、マスクをしているので、見分けるのはさらに困難になりました。
 

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御伽怪談短編集・第十七話「貧乏神の挨拶」

御伽怪談短編集・第十七話「貧乏神の挨拶」

 第十七話「貧乏神の挨拶」

 寛政(1790)の頃のこと。予は歌人の津村淙庵。叔父の見た不思議な夢について少し語ろう。
 叔父が壮年の頃のことである。ふと、昼寝していた時、妙な夢を見た。ボロ切れをまとった乞食らしき老人が座敷に姿を現わし、そのまま黙礼したのである。
——はて、知り合いであったか?
 と思う間もなく、老人はトントントンと軽やかに階段を上がり、二階へ行ってしった。もちろん、ただの夢で

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御伽怪談短編集・第十六話「妖怪の書く文」

御伽怪談短編集・第十六話「妖怪の書く文」

 第十六話「妖怪の書く文」

 天保(1829)のはじめのことであった。
 かの有名な『忠臣蔵狂詩集』を書いた植木玉厓の親戚の家に、不思議な妖怪が出ると言う。大きな被害はない。ただ、障子やその他の所へ文字を書く。おおむね意味も通じるが、この妖怪、他愛もないことばかりを書く。その中に、時々、滑稽なものもあり、人の心をよく知っているかのようだと言う。

 この家の主人の母御は芝居好きで、人気の立役者・

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御伽怪談短編集・第十五話「老僧の疫病神」

御伽怪談短編集・第十五話「老僧の疫病神」

第十五話「老僧の疫病神」

 日向の国・飫肥報恩寺の滄海和尚の弟子に、豊蔵主と言う僧侶がいた。彼は豪胆な性格で知られた知識人で、弟子をとらなかった。
 僧侶・豊蔵主は諸国を修行していた。白隠和尚に教えを請い、すでに天竺伝来の仏法にも飽き、臨済禅宗の厳しい修行に酔い、禅の境地にいたる塩梅を楽しんでいた。いつも酒をたしなみ、虎を打つ気構えを持った豪快な性格であった。もちろん、弱きを助け強きをくじく心意

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御伽怪談短編集・第十四話「亡霊との問答」

御伽怪談短編集・第十四話「亡霊との問答」

 第十四話「亡霊との問答」

 享和(1801)の頃のこと。江戸某所の寺の学問所に、奇妙な僧侶の亡霊が出ると噂があった。
 その噂とは、
——学力自慢の法師が来れば、必ず姿を現わして問答する。
 と言うものである。
 しかし、亡霊が人と問答など行うものであろうか?
 多くの亡霊は頭が良くない。僧侶と問答するなど考えられないことである。そのことから、現れるのは天狗の一種かも知れない。

 ある五月の

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御伽怪談短編集・第十ニ話「夏行の疫病神」

御伽怪談短編集・第十ニ話「夏行の疫病神」

 第十ニ話「夏行の疫病神」

 時は宝暦(1750年)の頃。京都一乗寺金福禅寺の住僧・松宗禅師の語られた物語である。
 先年、備後の国・三好鳳源寺で愚極和尚を招き講和が開かれた時のことである。愚極和尚は梵網経の解説本を書いたほどの知恵者でござる。講和の終わりに夏安居と呼ばれる夏行がはじまった。
 拙僧は、壮年の頃であったので、この会座に連なって、他の僧たちと共に修行しておった。僧侶たちは、昼夜の勤

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御伽怪談短編集・第十三話「参拝は心の糧」

御伽怪談短編集・第十三話「参拝は心の糧」

 第十三話「参拝は心の糧」

 最近はあまり聞くことはないが……少し前まで死に逝く者が別れを告げに来ることは、普通の出来事だった。これは江戸時代も後期に、拙者・佐藤中陵が山形へ薬草の調査に赴いた時、善勝寺の天膳和尚から聞いた物語である。

 米沢に町田弥五四郎と言うご隠居が住んでござった。彼は常に阿弥陀仏を信じ、何年も前から、毎日、善勝寺に参詣しておった。いつもひとりで来ていた。お付きの者もなく、

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御伽怪談短編集・第十一話「看病する亡霊」

御伽怪談短編集・第十一話「看病する亡霊」

 第十一話「看病する亡霊」

 予は本草学者の佐藤成裕。本草学とは漢方薬を研究する学問のことである。本草研究のために各地を歩いて、その時に聞いた話を『中陵漫録』と言う随筆に書いている。
 さて、岡山の笠岡から北へ四里ばかりの所に荏原村がある。薬草の研究のためこの地を訪れた時、奇妙な噂を耳にした。
 幽霊が病人の看病をしたと言うのである。
 村に嘉右衛門と言う男が住んでいた。彼の妻は流行り病ですでに

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御伽怪談短編集・第十話「雪隠の疫病神」

御伽怪談短編集・第十話「雪隠の疫病神」

 第十話「雪隠の疫病神」

 ここに不運で哀れな男がいた。
 時は延宝(1672)、天下分け目の関ヶ原から七十年ほど過ぎた頃のこと。
 不運な男は名を、御厨松之助と申した。立派なサムライではあったが、いわゆる勇猛果敢な性格には、ほど遠かった。小さなことに怯えては騒ぎ立てる弱腰に、同僚たちも閉口していた。軟弱な心の持ち主であり、まわりからは軽く見られていた。不運と言ったのはそれだけではなかった。何を

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御伽怪談短編集・第九話「先夫の死霊が」

御伽怪談短編集・第九話「先夫の死霊が」

 第九話「先夫の死霊が」

 拙者は鈴木桃野と申す儒学者。儒学と申すは、孔子にはじまる古来の政治・道徳の学びのことである。世の中に少しは名を知られておるが、儒学とは関係のない『反古のうらがき』と申す本に不可思議なることを書き記して、世の不思議を知ることやや度々となりぬ。
 さて、今回は、友人の斎藤朴園の奇妙な体験について少し語ろう。
 ある時、朴園に後添えの妻が来ることとなった。一昨年の流行り病で

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御伽怪談短編集・第八話「失われた日々」

御伽怪談短編集・第八話「失われた日々」

 第八話「失われた日々」

 近江八幡は、滋賀でも華やかな町であった。宝暦(1750)の頃、この町に松前屋市兵衛と言う徳のある商人が住んでいた。
 妻を迎えてしばらく経ったある日のこと、どこへ行ったものであろうか? 突然、市兵衛の行方が分からなくなった。家中の者が嘆き悲しんで、金を惜しまず方々を探し歩いたが、その行方は杳として知れなかった。他に商売を継ぐ者もなかった。かの妻も、元々一族から迎えた者

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御伽怪談短編集・第七話「疫病神を退散」

御伽怪談短編集・第七話「疫病神を退散」

 第七話「疫病神を退散」

 天保八年(1839年)二月下旬のことであった。その日、予・宮川政運の次女の乳母をしている者が、俄かに高熱が出て、夜具を引きかぶって寝てしまった。病に苦しんでいる様子であった。家の者も心配してあれやこれや手を尽くしたが、回復する兆しはみられなかった。乳母は名を〈お伝〉と申し、まだ若かったが、子供の頃から当家に仕えていた。

 翌朝、少し持ち直して乳母のお伝が、
「さても

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御伽怪談短編集・第六話「幽霊なきとも」

御伽怪談短編集・第六話「幽霊なきとも」

 第六話「幽霊なきとも」

 予、根岸鎮衛の元を時々訪れる友人に、栗原幸十郎と申す浪人がおった。彼は小日向に住んでいた。時々、予の屋敷を訪れては、様々なことを話してくれた。
 だが、そんな時も、
「お奉行様は、よく幽霊などのことを書かれておられるようでござりまするが、それがしは信じてござらん」
 と、笑っていた。
 幸十郎は浪人の身分ではあったが、近隣の旗本の屋敷へ出入りし、
「中でも、ひときわ懇

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御伽怪談短編集・第五話「犬を恐れる男」

御伽怪談短編集・第五話「犬を恐れる男」

第五話「犬を恐れる男」

 予・宮川政運の父がまだ若かった頃、江戸の本所石原町に播磨屋惣七と言う人足の世話人が住んでいた。これはその男から聞いた体験談である。
 晴れた秋の日のこと。そろそろ紅葉が色づいて、落ち葉も舞う季節。惣七たち数名が両国からの帰り道に、ひとりの男が近寄って来たと言う。
「どこへ参られまするや?」
 声をかけたのは痩せた貧相な男であった。顔は嫌な感じであったが、着物は新品のよう

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