御伽怪談短編集・第十ニ話「夏行の疫病神」
第十ニ話「夏行の疫病神」
時は宝暦(1750年)の頃。京都一乗寺金福禅寺の住僧・松宗禅師の語られた物語である。
先年、備後の国・三好鳳源寺で愚極和尚を招き講和が開かれた時のことである。愚極和尚は梵網経の解説本を書いたほどの知恵者でござる。講和の終わりに夏安居と呼ばれる夏行がはじまった。
拙僧は、壮年の頃であったので、この会座に連なって、他の僧たちと共に修行しておった。僧侶たちは、昼夜の勤行に疲れ果て、座具に座ったまま、ふらふらと居眠りしていた。拙僧も他の僧侶のことを言えた義理ではない。ご多分に洩れず居眠りをしておった。しかるに拙僧が、ふと、頭をもたげて目を開け見れば……垂れた引き幕を押し上げて、堂内を見まわす者がござった。
——無礼な奴かな。
と、見定めると、八十ばかりの老翁が目に止まった。青ざめた顔色に痩せこけた体に白髪をふり乱し、長い髭を蓄えた姿は、世に言う〈貧乏神〉とも言うべき浅ましさでござった。見ていて寒気がした。この老翁は、そろそろと結界を越えて堂内に入ろうとする気配であった。
拙僧は物も言わずにツカツカと走りより、老翁を押し出そうと試みた。骨ぼったい肋の感触が、やけに冷たかった。
老翁は、なおも無理矢理、入ろうとした。
拙僧が力にまかせに押し出すと、ドスンと転ぶ音が響いた。居眠りしていた僧侶たちが一斉にこちらを見た。じゃが、なぜか老翁の姿は見えなくなっていた。いないものは仕方がない。拙僧は何事もなかったかのように静かに座に帰り、元のように胡坐をかいた。半眼でまわりを見るとクスクスと笑う者もいた。だがこのことは、怪しく思いながらも誰にも語らなんだ。
その夜のこと、村の者が来て申すには、
「近在近郷に疫病が流行して、村ごとに過半数が病死してござりますだ。かたじけなくも、この寺に大法会があるからにござりましょうか? 村には、ただのひとりも病人も出ておりませぬ」
ここにおいて拙僧は、ようやくあのことを話すことにした。
「さても今日、このようなことがござった。村里に見たこともない怪しの風態の老翁が現れ、お堂に入ろうとしてござった。これや、かの疫病神と言うものかと思うて、押し返したぞ?」
一座は、
「それは疫病神に違いござらん」
と、いよいよ修行に怠慢することなければ、僧侶三百余人より下々にいたるまで、この村に限り病人は出なかった。老翁は疫病神だと思うぞかし。
寺に入ろうとする疫病神も珍しい。疫病神が実態を持って現れたら、押し返せば良い。しかし、普通の人では触っただけで病気になるであろう。そのあたり、さすがは徳の高い僧侶である。
幽霊の場合も同じだが、触れる時は押し返せる。また、殴ったり、蹴ったりすることも可能になるそうである。ただし対人間用の多く技は効かない。その理由は、急所や死ぬと言う概念を持たない存在だからである。
触れる時は、霊体も半分実体化していて、人の方も半分霊体化している。だから互いに触れるのだが、普通は触らぬ神に祟りなしであると言う。
ちなみに、興味本位に見に行っても無闇に触ったことになるので、その時は覚悟する必要がある。『笈埃《きゅうあい》随筆』より。〈了〉
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