Happy Women's Map 奈良県奈良市 福祉行政の創始者 光明皇后 / Mother of Welfare Administration, Empress Komyo
光明皇后 Empress Komyo
701 - 760
奈良県奈良市佐紀町
Born in Saki-machi, Nara-city, Nara-ken
「我自ら千人の垢を去らん」
"I shall cleanse myself of the impurities of a thousand people."
光明皇后は日本で初めて薬局・病院・孤児院・風呂を開設、庶民に開かれた福祉施設の原点をかたちづくりました。藤原一族と皇室はじめ豪族らの財産をつぎ込んで、福祉事業、写経事業、国分寺・国分尼寺・大仏建立を実施。父・藤原不比等が始めた国家事業を受け継ぎ、唐の則天武后にならった唐風政策を進めて、加羅・百済・高句麗など亡命王族・貴族たちの勢力争いを治め、日本国家をかたちづくります。
Empress Komyo is the first in Japan to establish pharmacies, orphanages, and public baths, laying the foundation for welfare facilities accessible to common people. She invested the assets of the Fujiwara clan and the Imperial family in welfare projects, sutra copying projects, and the construction of Kokubunji Temple, Kokubun Nunnery, and the Great Buddha. She inherited the national business begun by her father, Fujiwara Fubira, implemented Tang-style policies modelled on Empress Wu Zetian of the Tang dynasty, governed exiled royal families and aristocrats from countries such as Gaya, Baekje, and Goguryeo, and shaped Japanese nation.
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「父と母の政略」
父・不比等は、7歳で唐で仏法を学んだ聡明な兄を亡くし、11歳で大化の改新の功臣である父・中臣鎌足(天智天皇の腹心)を亡くし、14歳のときに一族が壬申の乱で天武天皇(天智天皇の実弟)に処罰を受け、下級官吏時代の18歳で豪族の娘・蘇我娼子を妻に、26歳で天武天皇の未亡人で異母妹・五百重娘を妻に、続いて豪族の娘・賀茂朝臣比売、天武天皇の女官・県犬養三千代を妻に迎え、31歳でようやく刑官の判事として名を現し、天武天皇の皇后の持統天皇時世で中納言になります。母・県犬養三千代は河内の豪族の娘で、幼いときから聡明で宮中に上がって命婦として阿閉皇女(天武天皇の皇子・草壁皇子の妃)に仕え、美努王(敏達天皇の後裔)の妻となって葛城王(後の橘諸兄)・佐為王(後の橘差佐為)・牟漏王女を出産、後に阿閉皇女の珂瑠皇子(後の文武天皇)の乳母となり権勢を振い、美努王と離婚して不比等の4番目の妻となり、2人の娘・安宿媛また多比能を生み、不比等の出生を助けます。父母は、賀茂朝臣比売の娘・宮子を文武天皇の夫人に据えることに成功、反対派を排除して政府の要職・大納言に進み、鎌足から継いだ藤原氏で官職を独占します。
「安宿媛と首皇子」
安宿媛は幼い頃から同年代の異母兄弟である首皇子(文武天皇と宮子の皇子)と同じ邸宅で育てられます。親密になって権力が奪われることを恐れた不比等と三千代によって、首皇子と生母・宮子は出産以来一切会うことを禁じられていました。文武天皇が急逝して阿閉皇女が元明天皇として即位すると、父・不比等は右大臣に昇進、母・三千代は橘宿禰の姓を賜ります。10歳の安宿媛は父母とともに藤原京から遷都したばかりで新しい堂塔・邸宅が建ち並ぶ平城京に入ります。まもなく16歳の安宿媛は入内、元服した首皇子の妃となり、18歳で皇女・阿倍内親王を出産します。「わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし」安宿媛の4人の兄たちが首皇子を訓育・補佐する中、元明天皇が皇女・元正天皇(首皇子の実姉)に攘夷、国家事業として日本書紀を完成させ養老律令に取り掛かっていた父・不比等が逝去、その翌年に元明太政天皇が崩御します。すると天武天皇の皇子である舎人親王ならびに新田部親王が知太政官事(太政大臣・左右大臣に準じる地位)また知五衛及授刀舎人事(軍事総監)に、天智天皇と天武天皇の皇孫である長屋王が右大臣さらに左大臣に進みます。
「クーデター」
不比等に抑圧されてきた皇族また豪族が反撃に転じようと計る中、ともに24歳となった首皇子と安宿媛は聖武天皇また天皇夫人となります。安宿媛は待望の基皇子を出産、盛大な祝宴を催して皇子の立太子を発表するも翌年には夭折してしまいます。そして時を同じくして県犬養宿禰広刀自が聖武天皇との間に安積親王を出産。安積親王の同母姉妹である井上内親王また不破内親王は光仁天皇(天智天皇の皇孫)また塩焼天皇(天武天皇の皇子・新田部親王の皇子)の后となります。さらに実弟を心配する元正太政天皇が聖武天皇の後見人として権力を握ります。天皇家と藤原家との血縁関係が途切れることを恐れる安宿媛の4人の異母兄たちは、基皇子の死から5か月後、突如、兵を率いて有力な皇位継承候補である長屋王の邸宅を囲み、長屋王はじめ妃の吉備内親王と4人の皇子を呪詛の罪で自害させます。続いて、安宿媛の異母姉と王の間に生まれた子息たちを全て皆殺しにします。政権を掌握した藤原4兄弟は、安宿媛の生母・三千代の出身地で捕えられた「瑞亀」(背中に「天皇貴平和百年」の祥瑞のある亀)を献上して年号を「天平」に改元、皇后の内助の必要性を訴え29歳の安宿媛を民間初の光明皇后に立てます。「天の下の政に置きて独り知るべきものならず、必ずもしりへの政あるべし。」
「法華滅罪寺」
飢饉・疫病が流行、平城京の都内には盗賊が横行、周りの山原には新興信仰に救いを求める数千・数万の群衆が集まります。光明皇后は即位と同時に、長屋王邸を取り潰して皇后の家政機関として皇后宮職を設置、執政や社会事業を行う拠点とします。続いて、不比等の旧邸に興福寺と五重塔を建立、施薬院・治者院・悲田院を設けます。施薬院では、藤原家の封戸(俸禄)を財源として医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集め、さらに、自宅で保養できない病苦孤独者を治者院に収容し治療します。悲田院では、乳母・養母がこのころ急増した捨て子・孤児また貧窮孤老者を労養世話します。そして同敷地内に「法華滅罪寺」を創建、自ら尼僧の仏学研鑚を勧めながら、薬草を用いた蒸し風呂、庶民のための「からふろ」を設けます。母・三千代が逝去すると、20年の唐留学から帰国した玄昉ならびに下道朝臣真備を僧正また中宮(宮子皇太夫人の付属機関)次官として重用。両名の仲介によって、聖武天皇と生母・宮子皇太夫人との面会を実現させます。地震・天然痘・凶作・流星群と天変地異が続く中、父・不比等と母・三千代の菩提を弔い、夫・聖武天皇の福寿と官人の忠節を願い、一切衆生の救済のために、一切経五千四十八巻の写本事業を開始します。「みそちあまり ふたつのすかた そなへたる むかしの人の ふめるあとそこれ」
「則天武后に倣う」
わずか数か月の間に、政権を独占していた光明皇后の4人の兄達が相次いで病死。亡き長屋王の兄弟・鈴鹿王が知太政官に、光明皇后の異父兄・橘宿禰諸兄が大納言になって政治の主導権を握り、聖武夫人・県犬養宿禰広刀自が産んだ安積親王が11歳に成長。光明皇后は21歳の娘・阿部内親王を皇太子に立てます。玄昉・真備の排斥と新羅討伐を主張する光明皇后の甥・藤原広嗣が大宰府で氾濫を起こすと都へ波及、聖武天皇と光明皇后は平城京を脱出して相楽郡(京都)の恭仁京、甲賀郡(滋賀県)の紫香楽宮、東生郡(大阪東部)の難波宮と遷都を繰り返します。藤原一族と橘宿禰諸兄また元正太政天皇が聖武天皇を引き留めようとする中、光明皇后は中国史上唯一の女帝である則天武后に倣って、諸国に国分寺また国分尼寺と七重塔の建設ならびに景王経・法華経の写経を命じ、諸国の税を施入させます。続いて橘宿禰諸兄に大仏造顕を命じます。度重なる遷都と寺また大仏の造営で疲弊した人々の不満が高まる頃、光明皇后は聖武天皇とともに平城京に戻ります。突然急死した橘宿禰諸兄に代わって、光明皇后の甥である藤原仲麻呂(不比等の長男・藤原武智麻呂の次男)を重用。筑紫観世音寺の造営を命じて左遷した玄昉に代わって、大仏造営に協力的で社会事業集団を束ねて庶民の信望を得る行基(百済後裔)を大僧正に任命。皇太子・阿部内親王を補佐する春宮大夫・真備品を筑紫の宮に左遷。まもなく聖武天皇の唯一の皇子である安積親王が17歳で奇怪な死を遂げ、元正太政天皇が崩御します。橘宿禰諸兄の長男・奈良麻呂らが長屋王の遺児・黄文王を擁立する中、光明皇后は病に臥せる聖武天皇に攘夷を促して安倍内親王を孝謙天皇として即位させます。47歳で光明皇太后となって実権を握り、付属機関・紫微中台を設置して長官に甥の藤原仲麻呂を任命します。
「無血クーデターで国家事業を完遂」
天武天皇以来、唐と日本との同盟を恐れる戦勝国である新羅は、敗戦国である日本に辞を低くして貢調使者を来朝させていました。まもなく旧高句麗・旧百済の両領民の合併に成功、唐との国交も繁く、仏教の発展もめざましく、私墾田や荘園が発生して王朝絶頂期を迎える新羅から、日本は対等さらには非礼な外交を受けるようになります。新羅を介して唐文化に接する日本は30年程遅れており、逃亡農民や豪族の違法墾田によって律令政治の基盤が蝕まれるのを、聖武天皇が攘夷数年前に制定した「墾田永年私財法」によって私墾田を認め始めたたばかり。新羅と唐の連合を恐れる光明皇后は、甥・清河と仲麻呂の息子・刷雄を藤原一族初の遣唐使として派遣、幾度かの難破・妨害を経て唐僧・鑑真を招致、大仏開眼の儀と日本における受戒伝律を実現します。聖武太政天皇とともに鑑真から受戒を受けた光明皇太后ならびに孝謙天皇らは仲麻呂邸に入ります。まもなく聖武太政天皇が崩御すると、光明皇后は盛大な法要を催し、先帝の愛用品はじめ歴代の天皇また豪族に受け継がれてきた珍宝・武器・武具・書物・楽器・宝冠・礼服・服飾品・調度品・薬を正倉院に納めさせます。無血クーデターを成功させた光明皇太后と仲麻呂は、聖武太政天皇の遺詔によって皇太子となった道祖王(天武天皇の皇孫)を素行の悪さを理由に廃太子。仲麻呂の子息の未亡人を妃とする大炊王(天武天皇の皇孫)を皇太子とします。仲麻呂が紫微内相を新設して軍事権を完全掌握すると、光明皇后の実妹である多比能の息子・橘奈良麻呂を謀反の首謀者として、天武天皇の皇孫・道祖王、長屋王の子息・黄文王、大伴古麻呂・多治比犢養・賀茂角足らを捕えて拷問・獄死・配流に処します。彼らは、皇太后宮・紫微台に収奪されていた鈴(れい・税を徴収するための駅鈴)璽(じ・政令を発行する天皇印)を太政官のもとに取り返して正常な太政官政治に戻そうとしたと主張、光明皇后の恩赦の詔は聞き入れられませんでした。「汝達は吾が近き人なれば一つも我を怨可きことは念えず、汝達は皇朝はここだく高く治め賜ふを、何を怨めしきこととしてか然かせむ有らじかとなも念ほしめす、是を以て汝達罪は免し賜ふ。」父・不比平が成し遂げようとした「国家」事業を継ぐように、唐風の四字年号に改元、唐の政治教訓書「維城典訓」を官吏の必読書に指定、「続日本史」(正史を修正して国家概念を構築)「氏族志」(新旧渡米人を区別して国内外を区別)を編纂、銭貨を金銭開基勝宝・銀線太平元宝・同船万年通宝に改鋳。仲麻呂と孝謙天皇の対立の仲裁に努める光明皇后は還暦を迎えて崩御します。
※この頃から、捨て子が急増します。というのも、父から子への官職の世襲制・夫を家長とする家制度が成立、女性たちは財産相続権利を奪われるとともに独立して生計を立てることが困難になります。さらに、世襲・家柄により社会的・公的身分が認知されるようになると、後継ぎの男子を生む女性が重要視され、働く女性は軽蔑視され始めます。同時に、後継ぎの男子を育てる乳母また養育係に高い位と経済的保障が与えられ、女性のあこがれの職業となります。
-宮内庁 Imperial House hold Agency
-総国分尼寺法華寺 Hokkeji
-「人物日本の女性史 第2巻 (栄光の女帝と后)」(集英社1977年)
-「日本を創った人びと 2」(日本文化の会 編集 / 平凡社1979年)
-「正倉院の謎 : 激動の歴史に揺れた宝物」(由水常雄 著 / 徳間書店1977年)
-「天平の開花 (現代人の日本史 ; 第3)」(丹羽文雄 著 / 河出書房新1959年)
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