「バタ足ノンデュアリティ」 金森 将
「私はいない」って?
「すべてはただ起きている」って?
ノンデュアリティの人は、「いまここ」を行きているのに、浮世離れしているように感じていた。
でも、「すべてはただ起きている」「起きることが起きているだけ」と捉えてみると、真面目すぎる私は少し楽になった。
日々、選択の連続。
こっちを選んだら、こうなった。じゃあ、あっちを選んでいたら?
あなたが選んだんだから、責任とりなさい。誰にも文句は言えないよ。
すっごいプレッシャーじゃないですか?
もう選択なんてできません。
でも、選択しないのも選択。選ばなかったことで、グズグズしていたことで起きる責任はあなたが取るんですよ。
なんて厳しい世の中なんだ。
そんな中、「すべてはただ起きている」。
この言葉に救われた。
意味はわからなくても、全面的に採用できなくっても、
私の選択にかかわらずただ起きているだけ。
その選択もただ起きただけ。あなたが選択したのではなく、そうであっただけ。
「私はいない」って言葉もすごいけど、ワンネスがわかってくるとそういうことかなと、ノンデュアリティの人たちが言いたいことはこういうことかな。
それなら、「私はいない」も、「私はあなた」も「あなたも私」も納得。
そんな感じで、ノンデュアリティ(非二元)を受け入れたら、
新たな疑問が湧いてきた。
「私はいない」
「すべてはただ起きている」
それなら、どうやって毎日を生きればいいの?
「私はいない」の概念はわかりました。
でも、肉体を持った私がここにいます。
「すべてはただ起きている」
それなのに、「好きなことをしなさい」ってどういうこと?
わからない。
ノンデュアリティ(非二元)の概念はわかってきた。
非二元の視点(神の視点といっていいかな)で物事を見ると、人間が慌てふためくことも、実はなんでもない。「すべてはただ起きている」。
(味気ない?味気なくないです。最初はモノクロに感じるかもしれないけれど、優しい色がついている。)
でも、それならなぜ、肉体を持ってそれぞれの個性を持って、二元の世界である地球で人生送っているのか?
いち抜けた!したくても、まだ光には還れない。
それでも、ノンデュアリティ(非二元)で生きると生きやすくなった。
そして、私なりにこの世の生き方を書いてみた。
そして、この本「バタ足ノンデュアリティ」に出会った。
タイトル「バタ足ノンデュアリティ」の下に、小さな文字で、
ノンデュアリティって、徹底、日常生活のことなんですよ!
と書いてあります。
そう、結局、そうなんです。
「すべてはただ起きている」
「バタ足ノンデュアリティ」前書きより
私たちは、まちがえようと思っても、
まちがえようのない道の上を歩いています。
どうやっても、まちがえようがないんですよ!
それならば!