諫言に耳を傾ける
諺の一つとして、「人の振り見て我が身を直せ」は皆さんご存知だと思います。最近私自身もこの諺を実感する事が多く、松下翁の次の言葉と合わせて我が身を直す、或いは、我が身を正すことを心掛けています。
「諫言を聞く」
指導者が物事を進めて行くに当たって、みなからいろいろな意見や情報を聞くのは当然の姿である。そしてその場合、大事なのは、自分にとって都合のいいことよりも、むしろ悪いことを多く聞くことである。つまり、賞賛の言葉、順調に進んでいる事柄についての情報よりも、“ここはこうしなくてはいけない”といった諫言なり、悪い点を指摘する情報を努めて聞くようにしなければならない。ところが、そうした情報はなかなか指導者の耳に入ってきにくいものだ。だから、指導者はできるだけ、そうした諫言なり、悪い情報を求め、みながそれを伝えやすいような雰囲気をつくることが大切なのである。(松下幸之助一日一話より)
私はこれまでに諫言を聞くことの重要性について、連ツイなどを通して何度か述べさせて頂きました。これは、中国古典の大家である守屋洋先生にご教授頂いたものが大半でありますので、私自身もまだまだ身になるまでは至っておりませんが、要約しますと中国古典のひとつであり今から約1400年前、唐王朝2代目皇帝であり名君として名高い「太宗」の時代に政治の要点をまとめた書物として「貞観政要」があります。「貞観政要」の貞観とは、平成と同じ太宗の時代の元号のことであり、つまりは貞観の時代に政治の要点をまとめた書物ということになります。
その貞観政要には、大別すると次の6つの教えがあります。
「わが身を正す」
「緊張感を持続させる」
「諫言に耳を傾ける」
「自己コントロール」
「謙虚にそして慎重に」
「初心忘るべからず」
その中でも、3つ目にある「諫言に耳を傾ける」ことについては松下翁の「諫言を聞く」と通ずるところがあります。
リーダーの中には諫言すら好まない人もいますが、仮にリーダーがどんなに口を酸っぱくして「諌言してほしい」と呼びかけたところで、それだけでは部下をその気にさせることはできません。部下の諌言を引き出すためには、自らが実行して示さなくてはなりません。具体的な行動としては次の2つになります。「普段から部下が上司に対して何でも自由に物が言えるように組織の風通しを良くしておくこと」、そして「リーダー自身が部下の意見に喜んで耳を傾ける懐の広い人間であることを示しておく」ことが必要になります。部下の立場から見て、親しみの感じられるリーダーであるならば、更に良いと言えます。
リーダーに「諫言の聞き方」の心得が必要であるのと同様に、部下にもまた「諫言の伝え方」に対する心得が必要とされます。
「諫言の伝え方」に関して孔子は、次のように述べています。
「諫に五あり。一に曰く、正諫。二に曰く、降諫。三に曰く、忠諫。四に曰く、戇諫。五に曰く、諷諫」
五諫についての解釈は諸説あるそうですが、
・正諫・・・正面からいさめる。
・降諫・・・いったん君主の言に従ったうえでいさめる。
・忠諫・・・真心を表していさめる。
・戇諫(とうかん)・・・愚直をもっていさめる。
・諷諫(ふうかん)・・・遠まわしにいさめる。
という意味になります。
その中でも、5番目の諷諫の大切さについて「吾それ諷諫に従わんか」と説き、それとなく遠回しにほのめかし、わが身の危険を避ける姿勢が望ましいとしています。
更に孔子は論語にて次のようにも述べています。
「君子に侍(じ)するに三愆(さんけん)あり。言(げん)未(いま)だこれに及ばずして言う、これを躁(そう)と謂(い)う。言これに及びて言わざる、これを隠(いん)と謂う。未だ顔色を見ずして言う、これを瞽(こ)と謂う。」(論語)
君子にお仕えする時にしがちな過ちが三つある。言うべきで無い時に余計な事を言うのを “躁(そう:落ち着きが無い)” と言う。言うべき時に必要な事を言わないのを “隠(いん:隠し事をする)” と言う。君子の顔色も見ないで自分勝手に言うのを “瞽(こ:盲目)” と言う意です。
更に、礼記(らいき)には以下のようにあります。
「人臣たるの礼は、顕わには諌めず。三諌して聴かれざれば、則ちこれを逃る」(礼記)
君主に過ちがあったら、それとなく遠回しに諌める。三回諌めて聴き入れられなかったら、そんな君主には見切りをつけて逃げなさいという意です。
「見切りをつけて逃げる」という行動は終身雇用の根付いていたこれまでの日本ではあまり好まれないことではありますが、要するに「そういうダメな君主にいつまでも仕えていたのでは、わが身まで危うくなる危険性が高くなるので、さっさと見切りをつけてもっと優秀な君主を探した方が良い」ということを中国古典は教えているのです。
翻って、貞観政要には理想的な君臣関係についても述べられています。
「惟(はなは)だ君臣(くんしん)相遇(あいあ)うこと魚水(ぎょすい)に同じきあれば、則ち海内(かいだい)安かるべし。」(貞観政要)
所謂、「君臣水魚」と言われる言葉です。君主と臣下、或いはリーダーや上司と部下の関係は、水と魚のような関係性が望ましいという意味です。
同様に孟子は
「君臣、義あり」(孟子)
とも言っています。両者の関係は義が必要であるという意になります。更に、 性善説を説く孔子や孟子とは逆に性悪説を説く韓非子は
「上下(しょうか)一日に百戦す」(韓非子)
とも言っています。韓非子によると君主の利益と臣下の利益は全く異なるという前提であり、上司と部下では大きく利害が対立するという意味です。
私は右手に論語を持ち、左手には韓非子を持っていますが、基本的には右利きですので、孟子のいうように義という信頼関係を構築した上で、論語にある諫言の仕方を実行する必要があると考えます。
「君子は信ぜられて後に諌(いさ)む。未だ信ぜられざれば、則ち以って己を謗(そし)るとなす」(論語)
君子というものは信頼を得た後に諫言をする。信頼を得られていない時に諫言をすると、侮辱しているように思われるという意味です。
貞観政要の中で太宗は、自分(君主)に過ちがあると見るやはばかることなく諌言を呈する臣下(争臣)を敢えて求めたとされますが、太宗の臣下のひとりであった王珪は「争臣七人あり」の体制が望ましい姿であるとも諫言しています。諫言というものは、聞く側にとっても、伝える側にとっても難しいことであり、難しいことだからこそ有意義な結果をもたらすともいえ、そこには義、即ち何が正しいか否か、更には信、お互いがお互いに対する信頼や信用が不可欠なものであるということを心得ておきたいものであると私は考えます。
中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp