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親がいなくなった時、自分は泣けるのだろうか···⑦ ( 二次被害の問題について 2 )


【 前回までのお話 】




このシリーズも7記事目まで来ました。
重たい話にも関わらず、いつも目を通していただき、ありがとうございました。

当初は自分の負の過去をさらけ出そうという意図で書き始めたのですが、書いているうちに次第に、読んでくださる方々と一緒に、タグにあるように、「これからの家族のかたち」や「多様性」について考えていきたいという思いに変わってきました。

今後さらに、幅広い観点から「家族のあり方」について深堀りしていきたいと考えています。

さて、前回は大学生時代に受けた二次被害について触れましたが、二次被害とは何かについて僕の理解を少し説明しておきます。

世の中には「これに関してはこうあるべき」という社会通念が存在します。例えば、「家族は例えどんな親兄弟であっても感謝すべき、愛すべき、尊敬すべき」というような一種の常識のようなものです。

近年になってこの固定概念はやや柔軟になりつつありますが、やはり、家族への批判非難や暴言はタブー視される傾向にありますし、固定概念を覆すことを言おうものなら偏見の目で見られることさえ決して少なくありません。

世の中において少数派の人が置いてけぼりになりがちなのはこの固定概念が強すぎるからです。

自分が壮絶な家庭環境のもとで育ち、「親にはほとんど感謝もできないし、自分にとっては親は憎しみや軽蔑の対象でしかない」と周囲の人に辛さをわかってもらおうと勇気を振り絞って告白した時、どんな反応が返ってくるでしょう。

打ち明ける周囲の人たちとの関係性にもよりますが、おそらく大学時代に僕が親友に告白した時と同じようなリアクションが返ってくることが多いのではないでしょうか。

自分自身がこれ以上ないくらい辛い思いをしてきて誰かに痛みを共有して慰めてほしいのに、逆に非難されたり偏見の目で見られ、より孤独に陥ってしまう。このことを一般的に「二次被害」と言います。
心理学的な一般的用語です。

家族のことに限らず、障害者の方や性的マイノリティーの方もよくこのような「二次被害」を受けると聞きます。

ただでさえ辛いのにそこに追い打ちをかけられる辛さ。僕が本気で「死にたい」と思ったことが、これまでの人生でもう何百回あったことか、数えることすらできません。今でもたまにあるくらいです。

この発言もまた、「自分自身を大切にするべき」という強い固定概念を持った方からは強く非難されるのかもしれませんが···。

僕は「固定概念」自体が悪いとはこれっぽっちも思っていません。一般的には理に適っていることが多く、一定の合理性を認めることができるからです。

ただ、その固定概念に当てはまらない人が出てきた時に、それを少し柔軟な概念に変えてほしいのです。

具体的には今回の「家族のあり方」に関する問題の場合、完全に受け入れて納得してくれなくてもいいから、僕のようなケースがあることを「知ってはおいてほしい」のです。ゆずさんの言葉を借りると、理解「は」しておいてほしいのです。

家族のあり方について、1人1人が、色んな環境下で育った人のことを知っていただく、理解していただくことで、確実に少しずつ、少しずつと、固定概念そのものも変わっていきます。

かつて存在した尊属殺人罪(親殺しの場合は死刑か無期懲役しか適応しないというあまりに不合理な、刑法に規定された犯罪類型)の撤廃、児童相談所やDV相談機関の普及、「モラハラ」という言葉の浸透などがまさにその一例です。

固定概念を時代に即したものに変えていくことは、生きやすい社会を作る上でとても大切なことです。
そうしたことも踏まえ、引き続き、このシリーズを少しずつ書いていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




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