【 エッセイ 】 大人の「本音」と子どもの「建前」




先日、久々にショッピングモールに出かけた。
昼下りの時間とあって家族連れが多い。私の背丈の半分もない小さな子どもがお母さんやお父さんと手をつないで歩く姿が何とも微笑ましい。

その子どもがこちらを何度も振り返ってじっと見てくるものだから、私が笑顔で「バイバイ」と手を振るとプイっとそっぽを向かれた。

(なんだ、ただ見ていただけだったんだね)
ただそれだけのことなのに何だか悲しい気持ちになる。まぁいいや、と思って目的の本屋さんに行くためにさっきの家族連れを追い越そうとした時、そっぽを向いた先ほどの子どもが私を見て手を振ってくれた。

慌ててこちらも「バイバイ」と手を振ると子どもがニコッと笑う。その笑顔を見て今度は言いようのないうれしさが込み上げてくる。

こんなにも子どもの仕草1つで気持ちが一喜一憂してしまうのは、子どもという建前もお世辞も知らない純粋無垢な存在にこそ好かれていたいという大人の本能的なものを自分自身が持っているからなのだろうか。

無垢な存在に好かれると自分を肯定された気持ちになる一方、嫌われたり興味を持たれなければ、
--- やや大げさな言い方かもしれないが---自分の人間性を否定されたような感覚に陥る。
だからこそ人は無垢な存在にこそ(にだけは)好かれていたいのだろう。

子どもは無垢な存在。そう思っていたのは私の祖父母も同じだった。私がかなり小さな頃、よくこう聞いてきた。

「おばあちゃんとおじいちゃんとどっちが好き?」
「うーん、どっちも ! 」

というと祖父母は「そうかいな」と顔を見合わせて苦笑するのである。おそらく祖父母としては「自分の方が好き」と言ってもらいたい気持ちで聞いてきたのだろうが、私はいつも困惑した。

どちらかを好きと言えばもう一方のどちらかが悲しむことになる。つまり気を遣っていたのだ。
だから私の返事はいつもはっきりしない。
にも関わらず祖父母はおそらくそれが純粋無垢な子どもの「本音」だと思って微笑ましく聞いていたのだろう。

小さな子どもは大人が思っているほど無垢な存在ではない。人を傷つけたくない本能みたいなもの(建前)はしっかり備わっている。「いつでも正直で素直な感情表現をする」と考えているのは大人たちの思い込みであることが多い。

子どもだって気を遣う。相手を傷つけたくないと思う。そう、子どもは大人が思っているほど「純粋無垢」な存在ではないのである。

冒頭のショッピングモールで出会った小さな子どもも、もしかしたら私に気を遣ってくれたのかもしれない。無垢な存在にこそ好かれていたい、という私の「(自分でも無意識の)本音」はもしかするとその前提すら見当違いだったのかもしれない。

街中で見かける子どもたち。
それぞれに「建前」を持ち合わせている対象に対し、私はかけるべき言葉が見つからない。取るべき行動が分からない。どう思われたいのかさえ、はっきりしなくなってくる。

私たちがあまりにも無垢な存在と思い込んでいる子どもたちの「建前」に振り回される大人たちの「本音」を垣間見る度、私は思わずくすっと笑ってしまうのである。




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