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360度、自分が変わるということ
以前にこんな記事を書いたことがある。
道を聞かれた。
今年に入ってからのこと。
そこは歩き慣れた地元、たやすい御用だ。
3、4人のおばさま方が声を発するのを待っていると、その方々は口ではなく手や腕をせわしなく動かし始めた。聴覚障害の方たちだったのだ。
僕は手話を知らない。
聞き取ることも話すこともできず、あわあわしていると、「もういいわ、ありがとう」というジェスチャーをして去っていかれてしまった。
こちらは立ち尽くすしかない。
世界はぐるりと反転し、「障害者」は自分の方だった。障害って何だろう。
この話を仕事の帰り、居酒屋で同僚に話した。
「自分の置かれた立場って案外、簡単に180度変わってしまうもんなんやなぁ」
と言うとその同僚も深く頷いた。
「何となく分かるわ。僕も今いる部署の上司がずっと嫌いやってんけど、最近、意外と『仕事で報いてくれる上司』なんかなって気づいてさ。そっから見る目が360度くらい変わったわ」
僕が笑いながら、「360度やったら変わってないやん」と言うと同僚も、「ほんまやな、180度の間違いや」と言って2人で笑い合った。
黒から白に。右から左に。
がらりと180度、正反対に変化することは、案外よくあるのではないかな、そんなことをふと思った。
〜を始める、〜をやめる、愛が憎しみに変わる、親を反面教師にして親と全く違う生き方をするなど、みんなよく聞く言葉である。少し変わることの方がよっぽど難しいのかもしれない。
思えばこうして仕事帰りに時々呑んで帰るようになったのも何年ぶりだろう。3、4年ぶりくらいだろうか。
コロナ禍によって、この3、4年間、社会全体が日常生活に180度と言ってよいくらいの変化を強いた。
それまで日常だったものは非日常となり、非日常が日常になった。
命を落とした人や、身内や親しい人の最期に立ち会えなかった人々も数多くいた。死者は世界中で数百万人にも及んだという。後遺症に今なお苦しむ人々も多い。
失ったものはそれらだけではない。
様々な娯楽や人とのリアルな交流が「不要不急のもの」として制限され、あらゆるイベントは中止され、学生はオンライン授業を余儀なくされた。
甲子園に象徴されるように、学生生活の集大成を発揮する場とも言える大会や文化コンクールなどが中止に至り、夢を打ち砕かれた若者やそうした先輩の姿を見てきた後輩たちがいかに多かったことか。
僕自身もコロナ禍でやるせない気持ちを抱えていた時期があった。5年前くらいから介護施設で暮らす祖父のお見舞いに毎月行っていたのだが、コロナが流行してから突然、面会禁止で会いに行けなくなった。
その後、面会禁止が緩和され、共有スペースでの15分だけの面会が可能になったが、たった15分。
せっかく孫が来てくれたのに、という寂しそうな祖父の表情が今も忘れられない。
全て自由に部屋で面会できるようになったのはつい最近のことだ。大切に思っている人と満足に話すことすらできない辛さを身に沁みて感じた。
それでも、コロナ禍で得た教訓も多かった。
大事な人と会っている時間の大切さ、行きたいところへ行ける自由さ、季節を感じることの愛おしさ。
想いを表現できる場があることのありがたさ、そして、想いを繋いでいくことの尊さ。
失うことで知ったそれらの思いを、これからも忘れてしまいたくはない。
昨年、コロナの「5類」移行がなされ、社会全体が大きな音を立てながらかつての日常へ戻ってきた中で迎えた今年の春。暖かく柔らかな風がマスク越しではなく直に頬をかすめる春。
世界はぐるりと180度回り、さらにそこから180度回って、元の日常へと戻ってきた。360度。
そして僕も3、4年前の僕へと戻ってきた。
でも、それは同じだけど、同じではない。
これまでと同じ自分でもない。
今ここにいるのは「360度」変わった自分なのだ。
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