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特別な日 ( 1年目の愛犬の命日 1/26 )

「1月26日」。
それは僕にとって特別な日だ。
一人暮らしの僕と10年間ずっと生活をともにしてきた愛犬のここちゃんが息を引き取った日。
その日からもう1年の月日が経つ。

毎朝、起きると仏壇に手を合わせ、話しかける。
じっと目を閉じて「よく寝れた ? 」とか、「今日は〜をしてくるよ」とか、「今日こんなことがあったよ」とか、他愛もない話をしている。

もちろん返事は返って来ない。
もう二度と姿形を見ることはできないんだと思うといつも涙が込み上げてくる。
1年経ってもやっぱり泣けてきてしまう。
遺影の中のここちゃんはいつも笑顔なのに。

時々ふと、命について考えることがある。
つい最近まで僕は人生の長いトンネルの中にいた。
毎日が辛い。逃げ出したい。時には死にたいとさえ思うことも何度もあった。そんな日々が何年も続いていた。

自分の命を、生きたくても生きられない、そうした切実に明日を願っている人にあげられたらどんなにいいことだろう。そんなことを思いながら生きてきた時期があった。

それでもようやくここ数年、何とか希望の扉を開け、自分なりに充実した日々を過ごせるようになった。叶えたい目標も見つかった。
「さぁ、これから」。そんな時にここちゃんが天国へ旅立った。凍てつくような寒さの中、たった1人で。

苦しい時、いつも側で寄り添ってくれたのがここちゃんだった。優しく見守ってくれていた。
孤独に押し潰されそうになった時も、生きていくことの辛さに絶望した日も、夜中に1人泣いて帰ってきた日も、ここちゃんがいた。

そんな我が子のようなここちゃんは、僕が辛い日々を乗り越えた時、僕の立ち直った姿を見届けて安心したかのように旅立った。
「この人はもう私がいなくても大丈夫」
そう言う残すようにしていなくなってしまった。

自分が一度は捨ててもいいと思った命。
生きることの大切さ、生きていてくれることのありがたさ、ここちゃんは自らの命で教えてくれた。
失って初めて気づくこと。自分が情けなかった。

ここちゃんにとって人生とは何だったんだろう。
この世に生を受けて、僕の人生を見守り見届けるための人生だったんだろうか。
考えても考えても未だに分からない。
そうではなかったと信じたい。

一度だけ夢に出てきてくれたことがあった。
うれしそうに駆け寄ってきて目一杯撫でさせてくれた。命日からちょうど3ヶ月が経つ夜だった。
「楽しい人生だったよ」「私のことはもう心配しなくても大丈夫だよ」。そんなことを伝えに来てくれたのかもしれないと今は思う。
本当に優しい子だったから。

亡くなってから1年が経ち、1つだけ以前の心境からの変化があった。
「ごめんね」よりも「ありがとう」が増えたこと。
「ごめんね」も今でも多いけれど、ここちゃんが遺してくれたもの、亡くなってからも心の支えになってくれていることへの感謝の想いが強くなったのだと思う。ごめんね、ではなく、ありがとう。

命日が近づき、いつも僕が座る場所の側に骨壺と生前に来ていた服を持ってきた。
今も隣で静かに眠っている。
そう感じられるのはおそらく、僕が寂しくないように、魂の一部をこの小さな骨壺の中に残して行ってくれたからだろう。

2人だけの静かな部屋。
寝て朝が来てまた夜が来る。
そんな当たり前のような日常は当たり前ではない。
「明日」に向かって今日をどれだけ大切に生きることができるか。そのことを忘れてはいけない。

ここちゃんが亡くなってから毎日欠かさず仏壇に手を合わせて言っている言葉がある。
「ありがとう。これまでもこれからもずっとね」
今、僕は人生をここちゃんと一緒に生きている。
天国の虹の橋の麓で元気に遊んでいるのか、あるいは何か別のものや人に生まれ変わって毎日を楽しく過ごしているのか、それは分からない。

でも、何だっていい。生きてさえいてくれれば。
僕の心の中で生き続けてさえいてくれれば。
姿形は消えても一緒に生きていくと決めたから。

いつになるかは分からないけれど、きっとまたいつかどこかで出会える。そんな気がしている。
それまで毎日をなるべく楽しんで生きていこう。
それがここちゃんへの一番の供養になると信じて。

「大好きだよ、ここちゃん」



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虎吉
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