『カラマーゾフの兄弟』再読感想文 その2 二匹の毒蛇? 推理小説のような (全12回)
※これから読む方々のために、なるべく物語の結末部分に触れないようにしたいと思っていますが、説明上どうしても全体の流れや途中のポイントなどネタバレしてしまうと思います。少しでもダメな方はご遠慮ください。
その2 二匹の毒蛇? 推理小説のような
わたしが好きな『カラマーゾフの兄弟』
まずは。
推理小説のような魅力。
もっと詳しくいうと。
単なる謎解きの物語ではなくて、
「事件が起こるまでの人間ドラマが複雑で長い」推理小説
のような魅力がある。というお話から。
1、推理小説的な側面。
『カラマーゾフの兄弟』は推理小説として読んでも面白いというご意見。時々見かけます。
それは魅力的な読み方の一つだと私も思います。
推理小説の始まりは1841年、エドガー・アラン・ポーが発表した短編『モルグ街の殺人』あたりというのが定説のようです。(オーギュスト・デュパン。良いです。)
『カラマーゾフの兄弟』は1879年に連載開始、1880年出版。大体40年ほど後に書かれています。
ドストエフスキーは、ポーの小説の紹介文も書いているそうです。刑事事件に対する興味も強かったとか。
「罪と罰」もある意味犯罪に関する物語といえますし。
ドストエフスキーは推理小説に詳しかったようです。
と、いうことで。
この物語をカラマーゾフ家に起こる「悲劇的な謎の死」(新潮文庫『カラマーゾフの兄弟』上巻p.15)とその顛末として、そこに焦点を当て、お話の流れを書き出してみると。
上中巻では。
物語の始まり。修道院での家族会議は不穏な雰囲気。
父と長男の間で財産と女性をめぐるいざこざが起こっている様子。
何か恐ろしい事件が起こりそうな気配。
長男の怒りに任せた殺害予告の言質。
次男と召使いが語る事件の予感。
不安に奔走する三男。
密室に籠る父親。ドアを開けるひみつの合図。取り上げる砧。破り捨てられた封筒。
そして犯人は逮捕され。でも本人はあくまでも否定。
真犯人は?
これ。推理小説ですよね。
下巻は法廷に。
ほぼ有罪に思われる被告を都会からやってきた有能弁護士は果たして無罪にできるのか。
こちらは法廷サスペンスですよね。
2、事件が起こるまでの長い人間ドラマ
さて。カラマーゾフを推理小説として読むなら。
ちょっと面白い特徴があります。
「悲劇的な謎の死」つまり「主人公アレクセイの父フョードルの死」を物語の冒頭で宣言したにもかかわらず。
その詳細については。
ずっと先になるまで描かれない。
(これ。前回その1の3でもお話ししましたが。)
何かが起こりそうな気配があちこちに漂い、その時が訪れることが十分に予感できるのに。でもなかなか事件は起こらない。その分、そこに至るまでの事件にまつわる人間ドラマが長く濃密に描かれて。
この感じ。事件が起こるまでが長い推理小説のような。
例えばアガサ・クリスティーの長編推理小説を思い出します。
有名なところでは『ナイルに死す』あたりでしょうか。
クリスティーの場合、事件が起こる前の長い人間ドラマと、そこから生まれるミスリードが素晴らしいのですが。
(私はアガサ・クリスティーも大好きで何度も読み返します。)
カラマーゾフの場合。
謎解きがすごいというより。(謎解きも面白いですが。)
事件の重さとか複雑さとそこに関わる人間模様の面白さ。
そういったものを重視し、事件が起こるまでを丁寧に描く。
そんな特徴を持った推理小説の一つのカタチのようにも見えて。
3、描き方の効果
物語の描き方ですが。
推理小説的にも面白い効果があるなと思ったので少しお話を。
(作者カラマーゾフが推理小説的な効果を意識していたのかどうかはわかりませんが。面白いので。)
まずは場面の切り替え方。
新潮文庫では。
犯人逮捕。でも逮捕された本人は否定していて、これからどうなってしまうのだろう。
というところで中巻は終わります。そして 下巻を取り上げると。
下巻の冒頭。『第四部 第十編 少年たち』
ここから、上巻で少しだけ名前が出たきりのコーリャ・クラソートキンという少年とその仲間の少年たち、さらにある家族のお話がp.11からp.131まで第十編全部続きます。
え? 事件は? 真相は?
となります。
でも丁寧に読んでいくうちに、コーリャや少年たちと深く関わるアレクセイが登場し、事件から二ヶ月ほど経っていること、公判前であること、などがわかるのですが。
推理小説として事件の真相を知りたい読者としては焦らされて。
(少年たちの物語も面白いのですが。)
こういうドストエフスキーの場面の切り替え方。おそらく意図的ですよね。本当にうまいです。
少年たちのお話は、上巻でアレクセイが遭遇した謎の体験の答えになっています。カラマーゾフ家の事件とは直接関係はないのですが、そのあたりの謎と答えの提示の仕方も含め、この焦らしぶり。
再読でわかっているはずなのに、私はいつもここで感心させられてしまうのです。
あまりお話しするとネタバレになってしまうのですが。
事件の起こる周辺の場面でも。
急に途切れ、次の場面に飛ぶという箇所もあって。(ここは意図的だと思います。)
この物語はとにかく全編、登場人物の会話やセリフや心情などで隙間なく濃密に埋められていると思うのですが。急に場面転換されると切断された感じとか焦らされた感が強まって。
面白いです。
もう一つは物語の視点。
「カラマーゾフの兄弟」は「わたし」の一人称ですが。
どうやら「わたし」は13年後の第二の物語の時点から、過去を俯瞰的に眺められる立場にあるようで。
そのため、三人称的な見方で事件を追うことになります。
アレクセイの視点に沿って物語が語られたと思えば、イワンの視点に寄り添ったり、ドミートリーの視点になったり。
特に中巻中程の『第八編 ミーチャ』あたりは。
と、こんな感じで。
(グルーシェニカというのはドミートリーの想い人アグラフェーナです。その8で彼女のことも少しお話しする予定です)
「こんなことがあったその一方で、そのころ彼はこうだった」みたいな描き方もあって。事件に関わる人たちが、同時進行で動き出す様子。
物語が加速していく感じ。緊迫感が高まって。知らず知らずのうちに物語に引き込まれて。
このような描き方。
推理小説的にも面白い効果をあげてるように思います。
4、再読も面白い(再読こそ?)
でもたしかに面白そうだけど。
推理小説って謎を解き終わったらもう読まなくていいのでは?
と考える方。多いかもしれません。
でも私。
推理小説を何回も読む派です。
私はどちらかというと謎解きよりも。
探偵の知性とか真実への誠実な態度。犯人や事件にまつわる人々の心理描写。など。そちらの方を興味深く読むので。
その辺りが丁寧に描かれた作品ならば。
謎解きに夢中になって初読を終えた後、もう一度初めから読み返すことで新たに見えてくる探偵の思考過程。犯人の心情。周囲の人間たちの細かな役割。
よくできた推理小説の再読は面白いです。
もちろん「カラマーゾフの兄弟」に探偵は出てきません。
でも事件にまつわる人間ドラマは複雑で深くて。その辺りがとりわけ丁寧に描かれていますから。
再読すると。
事件の詳細を再びなぞりながら、ドストエフスキーの描く濃密で複雑な人間ドラマを存分に楽しむことができるわけです。
そして再読では。
犯人がわかっている。という最大の強みがあって。
長い物語のところどころに見え隠れする、犯人の鬱屈した心理。心の揺れ動き。生い立ちや影響を与えた人やもの。など。
それらを細かく丁寧に追うことができて。
ああこういうことだったんだ。
となるのです。
5、犯人の魅力
そして「カラマーゾフ」の犯人。
ある意味すごく魅力的です。
あまりお話しするとネタバレになってしまうので少しだけ。
不遇な境遇。深い心の闇。その闇は深く辛く苦しく。殺人を実行できる残酷な心を持ちながら。同時に悲しすぎるささやかな希望とか期待とか承認欲求とか。
切ないです。
偶然とか。運命のいたずらとか。
ああ、あの時こうだったら。なんて。つい思ってしまいます。
計画を練りつつも、偶然の余地を残すところに、リアリティも感じて。
クリスティの犯人にも似た感じがあって。
人間ってそうかもしれない。と思えてしまいます。
「ミステリーカラマーゾフ」。
確かに面白いです。
ところで。
今夏、NODA・MAP 第27回公演『正三角関係』が上演されていますね(2024年8月13日現在)。
この舞台。『カラマーゾフの兄弟』を入り口にして、新しい物語を作り上げたということですが、初めから法廷が中心になっているようです。やはりミステリー色が強いようですね。
この舞台のことも、機会がありましたらお話ししたいと思っています。
(劇団夢の遊眠社「贋作・桜の森の満開の下」が実は大好きで。野田秀樹さんの耳男。良いです。)
さて。
もちろん推理小説的魅力はあくまでもこの物語の一面です。
次回からは全然異なる別のお話を。
まずは、宗教モチーフの小話みたいなものを。
「地獄の鉤」とか「信仰のうすい夫人」とかのお話です。
地獄に鉤?
次回 その3 信仰のうすい人たち① 地獄に鉤があるなら
前回 その1 はじめに はこちらから