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ジョン・アーヴィング『ガープの世界』 その5(全6回)

その5 失われた登場人物──映画化に伴って①

※ 物語の決定的な部分はなるべく言及しないように気をつけていますが、説明上どうしても、多少のネタバレをしてしまうと思います。少しでもダメな方はご遠慮ください。



 私が『ガープの世界』を繰り返し読むほど好きな理由。
 残り二つになりました。まずは。


 失われた登場人物──映画化に伴って①
 
『ガープの世界』は映画化されています。
 1982年。ジョージ・ロイ・ヒル監督です。

 長い物語ですから、映画化する際、小説から失われ描かれなかったものがあります。
 そこに私の好きなものがたくさんあるのでお話ししたいと思います。
 もちろん映画も好きです。
 映画と小説、どちらが良いとか悪いとか、そういうお話ではありません。
 先に映画に関係したお話を、その後小説について考えたこと感じたことをお話ししたいと思います。

 

 まず簡単に映画の感想を。

 映画は評価が高く、好きだと言ってくださる方も多いようです。むしろ映画の方が知られているかもしれません。ブログなどで見かける感想は小説より映画の方が多いような気がしました。
 古い映画なので、私はBSで放映したものを録画して拝見しました。
 
 感想は。

 とにかくこれだけの長さの物語を2時間ほどによくまとめたなあ。と。
 それだけでもすごいと感嘆しました。

 そしてわたしが特に素晴らしいと感じた点は

。

 俳優陣です

 主役ガープをロビン・ウィリアムズ、ジェニーをグレン・クローズが演じているのですが、この二人をはじめ、役者さんの演技が本当に素晴らしい。ロバータ・マルドゥーン役のジョン・リスゴーの演技は特に大好きです。
 ロバータは性転換した元フットボール選手なので複雑で特殊な役だと思いますが、リスゴーは素敵に演じています。特殊といえばジェニーもかなりクセのある人物ですが、グレン・クローズも「まさにジェニー」という演技で。素晴らしいです。


 でも小説はとにかく長い作品だし、豊富なエピソードが重なる構成なので。

 映画には描かれなかった登場人物がたくさんいます。
 そこに私の好きなエピソードもたくさんあって。
 
 例えば。

1、ウイーンの高級娼婦シャルロッテ 

 ガープが『ペンション・グリルパルツアー』(前回その4で紹介したガープのデビュー作。もちろん架空の小説です。)の後半を描くために必要だったウイーンでの生活の中で登場します。

 ガープはある日曜の朝、ウイーンのナッシュ市場で偶然彼女と出逢います。

化粧はしておらず、アメリカ製のジーンズにテニスシューズをはき、大きなロールカラーのついた長いコート式のセーターを羽織っている。果物をつかむ手にいつもの指輪が全部揃ってなかったならば、ガープも彼女と分からなかったことだろう。

ジョン アーヴィング (著), 筒井 正明 (翻訳)
『ガープの世界』 新潮文庫 1988年。
上巻 p.201

 彼女とガープはこの偶然の出会いから、次第に母と息子のような不思議な関係に。
 このエピソードが好きです。

 彼女との結末部分
 
 何度読んでも胸に迫って。


2、掃除婦ジルシー・スローパー

 
その4で後述するとお話しした人物です。
 ジョン・ウルフが売れる本の判定法として密かに頼っていた人。

彼女は出版社のなかに積まれている書物のなかを、まるで本が灰皿で、彼女はタバコをすわない人間であるかのように、関心なさそうに歩き回っていた。

同上 下巻 p.226-227

というほどの、本というものをほとんど読まない人。かなりのツワモノです。その彼女が読めるならその本は確実に売れるだろう、ということなのですが。


 ジョンは彼女から

「なぜ人は本を読むのか」

「なぜ一度読んだ本をもう一度読むのか」

を教えてもらいます。
 なぜ恐ろしいほどに辛く残酷な『ベンセンヘイバーの世界』(これも前回その4で紹介した作中作です)でさえ読んでしまうのかを。


 なぜ本を読むのか。についてのジョン・ウルフと彼女のやり取り。

「すると、きみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」
「ほかに本を読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」

『ガープの世界』 新潮文庫 下巻p.232

 彼女が言うには、大抵の本は何も起こらないか、起こったとしても何が起こるかわかってしまって読む気にならないのだそうです。


 なぜ再読するのか。についての彼女の言葉。

「いかにもほんとォーのことのように思えるからじゃないの」

同上 p.233

「ほんとォーのことが書いてある時ってのはよ、”そうだ!人間ってやつはいつもこういうふうに動いている”って、そういうふうに言えるときさ。(後略)」

同上 p.234

 彼女の答えを読むたびに私は深く共感何度も頷きました。この言葉はそのまま、『ガープの世界』を私が再読する理由の一つでもあります。
 
 彼女の性格。その週末の過ごし方
 逞しく辛く魅力的な人物です。


3. ハリエット・トラッケンミラー

髪は、似つかわしくない植物の図柄のスカーフでうしろに結んであり、顔にも化粧をしていたが、厚化粧というほどでもなかった。身支度を忘れない何処かのお母さんのように、なかなか”小粋”に見える。

同上 p.379

 彼女のことを詳しく描くとかなりネタバレになってしまうのでここでは書きませんが。
 ガープが彼女の美容院を訪れ言葉をかわす場面が素晴らしくて。
 私の大好きなエピソードの一つです。


 そういうわけで映画では、ウイーンの場面はニューヨークに変わり、掃除婦美容院も出てきません。
 ガープのデビュー作は『ペンション・グリルパルツアー』ではなく全然異なる物語になりました。(もちろん映画のお話もよくできているとは思いますが。)

 ちょっと残念。



 一方。
 全く登場しないというのではなく、出番が極端に減ってしまった人物もいます。 
 削られてしまったエピソードは残念ですが、その代わりというか。
 短いながらも印象的なシーンになりました。

4、エレン・ジェイムズ

とても痩せた女性で、少女のような手は骨が透けて見えんばかり、その手でやたら大きなハンドバックを握りしめている。彼女はなにも聞かずに、ただ黙って座席に座った。

同上 下巻 p.316

 幼くして性被害に遭ってしまったエレン・ジェイムズ。初登場の描写です。
 彼女は恐ろしい経験ののち、思いも寄らない人生を送り、小説の方では後半から終わりにかけてガープと交流することになります。二人の関係性が私は好きなのですが。
 映画ではこの辺り、全く描かれません。残念。
 その代わり彼女は小説とは異なった短い場面に登場します。 

 実は。映画で彼女のとった行動。
 小説では別の人物のものなのです。

 それをエレンに担わせた結果、とても印象的で素敵なシーンになって。

 ガープが乗ったタクシーを見送る彼女の姿が次第に小さくなっていくシーン。
 
 良いです。

 演じたアマンダ・プラマーも素晴らしかった。
 彼女の痛々しいほどの線の細さとうちに秘められた芯の強さ、ちょっとミステリアスな感じが、性被害にあってもなお生き続けるエレンを象徴的に表しているようで。
  

 映画は大抵二時間ほどで終わります。
 時間的な制約の中で、たくさんの人に物語を理解してもらうためには、原作が長くて複雑であればあるほど、捨てられる登場人物やエピソードが多くなるのでしょう。
 主要な登場人物以外はあまり複雑にしない
 お話しを進めるための役割以上の深みは与えない。
 そもそも省略できる人物は省略する
 などの、物語の焦点をぼかさないようにする工夫が必要なのかもしれません。


 確かアーヴィング自身も、自分の小説の映画化のために脚本を書いた時のこと。(小説と同名の映画『サイダーハウス・ルール』1999年、ラッセ・ハルストレム監督。アーヴィングはこの作品でアカデミー賞の脚色賞を受賞しています。助演男優賞を受賞したマイケル・ケインの演技も素晴らしかったです。)
 どの人物をフォーカスしどの人物を省略するか。
 あるいは主要な人物の一人であるにもかかわらず、あまりにも複雑で深すぎるため映画向きではないと判断。そこでその役割を別の人物に担わせ特徴を和らげる
 など、かなり苦労した経緯を語っています。(ジョン・アーヴィング著、村井智之訳『マイ・ムービー・ビジネス』扶桑社、2000年)。


 
 主要ではない人たち(場合によっては主要であっても)の深く複雑なエピソード

 私はその捨てられてしまう登場人物達深み複雑さ面白みみたいなものが大好きです。

 「ガープの世界」の小説はそういう人物とエピソードで溢れています



 これ。映画とは関係なく、小説だけを考えても似たように感じることがあります。
 大抵の物語では主要な人物をより深く複雑に描き、一方その他の人物、いわゆる脇役と呼ばれる人物たちの描き方が浅くなることは否めないと思います。
 「ガープの世界」でももちろん、人物描写のそれぞれに多少の濃淡があります。でもその濃淡の淡の方でさえ、とても詳しく深く描写されていると思うのです。 
 それはまるで。

 スポットが当たる人物と当たらない人物が存在するとしても、それはあくまでも物語を進めるためであり、物語の俎上に乗らない人物たちにもそれぞれの人生があり、それは主要人物に勝るとも劣らない複雑さと深さを持つものなんだ。

 と言われているように感じるのです。
 
 主要でない人たちの複雑さ深さ

 短い物語ではそこに多くのページを割くことは難しいかもしれません。
 これはやはり長い小説の方が描きやすいと思います。

 だから私は長い小説が好きなのかもしれません。


 ジョン・アーヴィングの小説は長編が多いです。いずれの作品にも脇役的登場人物たちに複雑で深い描写を与えようとする作家の強い意志。のようなものがあるように思えて。

 私はそれをドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読む時にも感じます。
 三兄弟はもちろん、フョードルもスメルジャコフもアグラフェーナもカーチャも、主要な人物だけでもたくさんいて、どの人物も魅力的なのですが。
 例えばマクシーモフの悲しさと愛らしさ、ペルホーチンの真面目な好青年ぶり、二等大尉の辛く悲しい愛情もとても好きで。
 そのほかの脇役的人物が、とても魅力的で複雑で深い

 そのせいでおそらく。
 アーヴィングドストエフスキー
 私はどちらも、何度でも、読み返してしまうのです。

 

 さて、次回は最終回。
 その6 『失われたエピローグ──映画化に伴って②』(最終回)

 前回 その4 「小説の中の小説」と「作家論」

 その1 『狂気と悲哀。だけでなく』はこちらから

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