『カラマーゾフの兄弟』再読感想文 その11 三兄弟② 「冷徹な知性人」(全12回)
※これから読む方々のために、なるべく物語の結末部分に触れないようにしたいと思っていますが、説明上どうしても全体の流れや途中のポイントなどネタバレしてしまうと思います。少しでもダメな方はご遠慮ください。
その11 三兄弟② 「冷徹な知性人」
イワン・フョードロウィチ・カラマーゾフ。
カラマーゾフ家の次男です。
新潮文庫上巻裏表紙のあらすじに書かれた性格は「冷徹な知性人」。
でも私は彼に別の印象を持っています。それは。
情熱と苦悩の人。
それを「冷徹な知性人」という仮面の下に隠し持っている人。
今回は、私がそんなふうに感じたエピソードをお話しします。
すみません。長いです。
1 心に痛みをいだいて
上巻、修道院で行われた「場違いな会合」。
ここでイワンと修道僧たち、パイーシィ神父やイォシフ神父、ゾシマ長老の宗教的なやりとりが展開します。
教会が国家の一隅を占めるのではなく、国家になるのでもなく、国家が教会へと、その高みへ、と変化する。
という理想への憧憬が真剣に語られます。
興味深い議論なのですが。
知識人を気取るミウーソフ(フョードルの最初の妻の親戚です。その8で少しお話ししました)の軽薄さが際立ち、ドストエフスキーの人間描写が面白いところでもあります。
居心地の悪くなったミウーソフ。
彼はあてこするようにイワンの論文を話題に取り上げ、「不死がなければ、善もない」という、イワンのちょっと大胆な考えを披露してしまいます。
(イワン自身ではなくミウーソウが言い出すところがポイントだと思います。)
すると。
それを聞いたゾシマ長老はイワンに言います。
もしそう信じているのなら、あなたは不幸な人だと。
赤面するイワン。
ゾシマ長老の鋭い指摘に彼の仮面は剥がれていきます。
さらに長老は。
ゾシマ長老はイワンに理解を示し憐れみ、十字を切ろうとしますが、イワンは自ら祝福を受けにいき、その手に接吻し、長老への敬意を示します。
無神論者とみなされていたイワンの、思いがけない行動にその場の皆が驚くのですが。
「不死がなければ、善もない」
この問題はまだイワンの中では解決されていません。
しかし「しつこく解決を要求」し彼の心を苦しめる。
彼は心に痛みを抱きつつ、嘲笑し、絶望し、憂さを晴らしている。
彼は苦しんでいる。
冷徹な知識人であるはずの彼が。
しかしゾシマ長老以外の人には彼の苦しみは伝わらないようで。
イワンの苦悩をよそに、ここから「神がなければ全て許される。」という言葉が一人歩きして、のちの悲劇を招くことに。
イワンの真意は下巻でもう少し明らかになります。
それは決してミウーソウやドミートリイが考えるような単純なものではないように私には思えるのですが。
イワンの問題は解決されない。
だから彼の苦悩は深く苦しく絶望的なのです。
2 生きていたいよ
会議後。
不穏な空気に奔走する主人公アレクセイでしたが。
上巻後半では。
兄イワンと二人、飲み屋で会話をすることになります。
ここでイワンは、弟アレクセイに、それまでとは打って変わって気さくな態度を取り、弟に愛情を示します。
わたしが好きなのはさくらんぼのジャムのエピソード。
ポレノフの家というのはイワンとアレクセイが子供の頃世話になった家です。早いうちにイワンはこの家を出ていました。
何年も経って互いに成人し、再会した兄は弟の好物を覚えていた。
いいエピソードですよね。
そういえばゾシマ長老もさくらんぼのジャムが好きでよく食べていたという記述があります。アレクセイとゾシマ長老のそんな繋がりも面白いのですが。
ゾシマ長老はイワンの苦悩を見抜きましたが。
アレクセイはイワンの若さを見抜いています。
アレクセイの楽しそうな指摘にイワンは素直に同意し、生きることへの情熱を語ります。
そして熱い心の告白が三ページ近く続きます。
彼はまた、過去の人類の偉業を讃え、ヨーロッパに行きたい、行ったらきっと、地面に倒れ伏し、偉人の墓石に接吻し涙を流すだろうと言います。
「俺が泣くのは絶望からじゃなく、自分の流した涙によって幸福になるからにすぎないんだよ。自分の感動に酔うわけだ。」(同上p.578)
生を愛し、生きていたいと語るイワン。
彼の若さと情熱はキラキラと眩しい。
冷徹な仮面の下の激しい熱い情熱。
しかし、彼は苦悩しています。
彼は世界のそこかしこで起こる子供の虐待を見過ごすことができずに苦しんでいます。彼は自分の苦悩をアレクセイに伝えたくて、たくさんの迫害され虐待された子供たちの話をします。
この辺り。いつも読むのが辛いです。
そして彼は、キリスト教の調和の世界に対して異議を唱えるのです。
イワンはアレクセイに問いかけます。
たとえどれほど神の調和の世界が美しくても。
そこに至るために小さな子供の犠牲が必要だというのなら。
その上に成り立つ世界の調和をお前は受け入れられるのか?
と。激しく熱く繰り返し、アレクセイに問いかけるイワン。
子供達を救済したいという狂おしいほどの願いは前回のドミートリイにもあったことはお話ししましたが。
この作品の大きな主題であると思います。
この激しい救済への願いは私の心にも強く響いて。
3 地獄を抱いて
続いて登場するのはあの有名な「大審問官」。
イワンは自分が作った叙事詩だと言ってその内容をアレクセイに話します。
かなり長いのですが、簡単にお話ししますと。
神の約束の調和はまだずっと先の時代。
その前に人々を案じてふと地上に姿を見せたキリスト。それはちょうど異端審問の盛りの時代でもありました。そこで活躍していた大審問官は、しかしキリストを捕え非難します。
神の教えとその思想がいくら素晴らしくてもそれでは民衆は救えない。なぜなら「パンをもらうこと」とか「神よりも奇跡を求めてしまうこと」とか「服従すること」は愚かな民衆にとって必要なものだから。
彼自身はキリストの思想の素晴らしさを理解し、厳しい修行を重ねた経験を持っています。しかし自分だけが悟り、調和を得ても、多くの民衆は救われない。だから教えに反することになっても、彼はキリストが退けたものを民衆に与えるのだと言うのです。
キリストへの非難は彼の悲しい心の叫びのように聞こえます。
キリストは何も言わず、彼に接吻し、その場を立ち去る。という物語。
と。こんな感じでしようか?
キリストは奇跡とパンを退けた。
そこに本当の信仰はないのだから。
しかし奇跡とパンがなければ信仰もない民衆。
救えない民衆。
自分一人修行の果てに信仰を得ても民衆を救えないなら。
己の信仰に背いても民衆を救うのだ。
大審問官の苦悩はイワンの苦悩でもあるのでしょう。
あまりにも辛く苦しいイワンの胸の内の。
心が切り裂かれるような叫び。
そんな苦悩を抱いて生きていけるのですか? とアレクセイは問います。
この後。
それでも耐え抜ける「カラマーゾフの力」の話とか、「すべては許される」という話になるのですが。
イワンの問題は解決されません。
4 ロマンチスト
下巻のエピソード。
苦悩するイワンは妄想で悪魔を作り出します。
恐ろしいというより、哀れで滑稽。
イワンの妄想する悪魔は哀しい。
そしてこの悪魔。
色々と話をしてイワンをイラつかせ怒らせます。
悪魔は馴れ馴れしい態度でイワンをからかい、嘲笑します。
対するイワン。彼の余裕のなさが悲しい。
イワンが嫌がるのも構わず、悪魔はイワンが作ったもう一つの叙事詩『地質学的変動』を引用します。そこにはイワンの考える理想の世界が。
神がなければ。
天上の喜びに代わる喜びが生まれ。
人は自己の意思と科学によって、高尚な喜びを感ずるようになる。
不死がなければ。
初めて人は誇らしげに冷静に死を受け入れられる。
神も不死もなくても人は安定を得られるはず。
という理想を掲げるイワン。
輝かしい理想の世界です。
しかし同時に。
人類はまだ愚かだ。
だから真理を認識した人間ならば安定することが許される。
《すべてが許される》という言葉の意味。
イワンの考えはかなり複雑なのです。
とはいえ。
彼は自分の叙事詩を悪魔が語ることをとても嫌がります。
彼は自分の叙事詩を恥じている。
輝かしい理想を語ったことを後悔している。
それでも悪魔はやめません。
叙事詩をペテンだと言い、さらに、イワンにはペテンをする決心がつかないと嘲笑する悪魔。
耐えきれず、イワンは悪魔にコップを投げつけます。自分の妄想なのに。
崇高な理想を掲げる情熱的な若いイワン。
しかしそれを恥じ、自ら(悪魔の口を借りて)揶揄するイワン。
彼は人々の救済という理想と、現実の齟齬に真剣に苦しんでいる。
粘っこい若葉と地獄を抱いて。
この後。
アレクセイが来たことで妄想の悪魔は消えます。
しかし妄想が実在してくれていた方がマシだ、とイワンはますます狂気の様相を呈していき。
彼は半ば錯乱した様子でアレクセイこういいます。
次回 その12 三兄弟③ 「敬虔な修道者」(完結)
前回 その10 三兄弟① 「放蕩無頼な情熱漢」
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