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『カラマーゾフの兄弟』再読感想文 その4 信仰のうすい人たち②山を動かすことができる人(全12回)
※これから読む方々のためになるべく物語の結末部分に触れないようにしたいと思っていますが、説明上どうしても物語の流れや途中のポイントなどネタバレしてしまうと思います。少しでもダメな人はご遠慮ください。
その4 信仰のうすい人たち② 山を動かすことができる人
カラマーゾフの兄弟は宗教的なエピソードが多く、馴染みがないと入りづらいかもしれません。でもちょっとした会話にも登場人物の性格とか、考え方とかが見えてきて面白いところでもあります。
というわけで。
前回に引き続き。宗教的な「ちょっとした(でも実は長くて深い)会話」を紹介したいと思います。
今回は。
山を動かすことができる人はいるのか? というお話。
これ。かなり好きなエピソードです。
場所は主人公アレクセイの父フョードルの家。
登場人物は五人。
父フョードル。次男イワン。召使いのスメルジャコフ。老僕グレゴーリィ。
彼ら四人で会話しているところに主人公アレクセイがやってきます。
新潮文庫上巻裏表紙のあらすじでは。
物欲の権化の父フョードル。
冷徹な知性人の次男イワン。
フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。
と紹介されていますが、スメルジャコフはカラマーゾフ家の若い召使でもあります。
(彼についてはその7でもう一度お話しする予定です。)
グレゴーリイはあらすじでは紹介されていませんが、フョードルの敬虔な老僕です。
さて。どんな会話かというと。
1 「第一部 第三編 好色な男たち 七 論争」
と。その前に。
やはりグレゴーリイについてもう少し詳しくお話したいと思います。ドストエフスキーの人物造形が素晴らしいので。
グリゴーリイはグリゴーリイ・ワシーリエウィチ・クトゥゾフ。
いったん何らかの理由、それもたいていの場合おどろくほど非論理的な理由によって、変わることない真実として一つの点が目の前に設定されるや、その点をめざして頑ななほどまっすぐに歩みつづける、意志の強固な一徹者である。概して言うなら、正直で、鼻薬の効かぬ人間だった。
新潮文庫 1978年 上巻p.225
だそうです。
ドストエフスキーの皮肉の効いた人物描写がさすがですが。
この後さらに、この老僕と妻マルファとのエピソード、フョードルとの信頼関係、子供好きな彼が授かった子供は生まれてすぐ亡くなってしまったことなど。上巻P.225からp.234まで10ページくらい彼についてのお話が続きます。
前回取り上げたホフラコワ夫人もそうでしたが、ドストエフスキーの人物造形は、ちょっとした脇役まで複雑に詳しく描かれて面白いです。妻マルファが実は夫より進んだ考えを持っていたこととか、フョードルがなぜ彼をそばに置いているか、などのエピソードも好きです。
さて。問題の会話に入りましょう。
アレクセイが来た時。
老僕グレゴーリイは殉教したロシア兵の話を持ち出し、フョードルが少しも感動せず冒涜しそうな気配に眉を顰めますが。それを聞いていた召使いスメルジャコフが急に話出します。
その立派な兵士の英雄的行為が、たいそう偉大だとしましても、ですね。私の考えでは、仮にそんな不慮の災難にあって、キリストの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬそのことによって苦行のために自分の命を救い、永年の間にそれらの善行で臆病を償うためだとしたら、やはり何の罪もないだろうと思うのです。
(殉教についてどう考えるかはここでは語らないことにします。難しい問題だと思うので。)
スメルジャコフは。
信仰を捨てるよう迫害者に迫られた時、捨てても罪にはならない、なぜなら捨てた瞬間キリスト教徒ではなくなるのだから神に罰せられることはないのだ。という屁理屈のような理屈を続けます。
敬虔なグレゴーリーにすればその発言は冒涜的ですから、当然憤ります。
フョードルは逆に面白がり「スメルジャコフがそんな話をするのは無神論者のイワンに褒めてもらいたいからだ。」と言います。
当のスメルジャコフは澄ました顔をしてさらに。
そもそも。
「小さな穀粒ほどの信仰を持っているなら、この山に向かって、海に入れと言えば、山はその命令一つで」(同上p.319)海に入るはずなのに。そんなことにはならないではないか。
などと言い出し。
あなただけじゃなく、現代ではだれ一人、山を海に入らせることなぞできやしないんです。もっともこの地上全体に一人か、多くて二人くらいは、そんな人もいるかもしれませんが、──後略──
普通の人には山を動かすなんて無理だけれど、それでもこの世界には、山を動かせる聖人が一人かもしくは二人はいるかもしれない。と言います。
さて。
私が特に興味深く読んだのはここからです。
フョードルはスメルジャコフの言葉をとらえて。
「すると、山を動かすことのできる人間が二人はいるのか。──中略──おい、イワン、覚えておけよ、書き留めておくがいい。まさにここでロシア人が顔を覗かせたな!」
と面白がります。すると。
「その指摘はまさに正しいですね、これは信仰における民族的な一面ですよ」肯定の微笑みをうかべて、イワンが同意した。
「お前も同意するか! お前が同意なら、つまり、それにちがいないんだ! アリョーシカ、本当だろう? まさにロシア的な信仰だろうが?」
「いいえ、スメルジャコフのは、全然ロシア的な信仰じゃありませんよ。」アリョーシャは真顔でキッパリと言った。
「俺はこいつの信仰のことを言ってるんじゃない、こういう一面を言ってるんだよ、二人の隠者という、まさにその一面だけを言っているのさ。どうだ、ロシア的だろう、ロシア的だろうが?」
「ええ、そういう面は全くロシア的ですね」アリョーシャが微笑した。
(アリョーシカもアリョーシャもアレクセイのことです。)
ちょっと引用が長くなりましたが。
このあたりの会話。
普通の人は信仰を捨てても罪にはならない。などと、ちょっと不謹慎なことを言ってグレゴーリーを揶揄うスメルジャコフ。
でも彼も、信仰を捨てず山を動かすほどの聖人が、この世界にはもしかしたら、ことによったら一人か二人くらいはいるのでは? と考えてしまうくらいに、やはり心のどこかに信仰が残っている。
それがロシア的なのだと指摘するフョードルの鋭さ。
冷静にフョードルの言葉に同意するイワンは、彼に褒められたくてそんな話をしているというスメルジャコフに対して冷たい感じがしますが。(彼がスメルジャコフをどう思っているかは先を読み進めるとだんだんわかってきます。)
一方のアレクセイは、信仰については真面目で譲らないところがあるものの、フョードルの言わんとすることを理解すると、微笑して肯定する柔軟性を持っていることがわかります。
信仰についてのそれぞれの考え方と、性格みたいなものも見えてきて。
ちょっと皮肉なおかしさもあります。
さて。このモチーフ、さらに続きます。
2 「第一部、第三編 好色な男たち 八 コニャックを飲みながら」
議論は終わり「ふいにむずかしい顔になった」(上巻p.324)フョードル。
スメルジャコフとグレゴーリイを下がらせ、イワンに神はあるのかないのかと尋ねます。
「 ──前略──イワン、答えてみろ、神はあるのか、ないのか? いや、ちょっと待て。ちゃんと言うんだぞ、まじめに言えよ! どうして、また笑っているんだ?」「僕が笑ったのは、山を動かすことのできる隠者が二人は存在するというスメルジャコフの信念に対して、さっきお父さん自身、既知に富んだ批評をなさったからですよ」「それじゃ今もそれに似てるっていうのか?」「ええ、とてもね。」「と、つまり、俺もロシア人で、俺にもロシア的な一面があるってわけか。──後略──」
ここで先ほどのスメルジャコフに対して見せたフョードルの洞察力が、フョードル自身にも当てはまってしまうことをイワンに指摘されます。
「神があるのかないのか」などとそんなふうに問いかけるならば。
それはつまり、世界に一人か二人は聖者がいるかもと思ってしまうロシア人的な心をお父さんも待っているのですよ。と。
イワンの洒落た返し。
でもそれを指摘され、素直に認めるフョードルもいいですよね。
フョードルはアレクセイにも尋ねます。
「アリョーシカ、神はあるのか?」
「神はあります」
「イワン、不死はあるのか、何かほんの少しでもいいんだが?」
「不死もありません」
「全然か?」
「全然」
「つまりまったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな? とにかく何もないってわけではあるまい!」
「まったくの無ですよ」
「アリョーシカ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか?」
「神も不死もです。神のうちに不死もまた存在するのです」
「ふむ。どうも、イワンのほうが正しそうだな。──後略──」
フョードルの「どうも、イワンの方が正しそうだな」というセリフ。
フョードルの、知性、賢さゆえの不信、しかしそれに対する不安。やるせなさ。腹立たしさ。神を信じきれない知識人の、少しふざけた、でも妙に真面目な、正直な気持ちが見えてきて。
「地獄に鉤はないのか」などと、アレクセイを揶揄っていたフョードルを前回取り上げましたが。この「コニャックを飲みながら」の彼の言動も合わせてみると。
近代化された知性をもちつつ。でも信仰は生活や心の中に深く浸透していて。
信じていてもいなくても。心の中に、なんだか居心地の悪いものを感じてしまうような。苦しい思いをさせられるような。
敬虔な老僕グレゴーリー。
それを揶揄いつつも心のどこかで信仰が残っているスメルジャコフ。
それを指摘する知性をもちながら、やはりそこから抜け切れないフョードル。
三者三様の信仰のカタチ。
またこの会話。
イワンとアレクセイの考え方を明確に対比させるところも面白いですよね。
ただし、イワンが神と不死を否定したのはアレクセイの前だったからだということが、この少し後の章で明かされます。
アレクセイにしても意外と単純ではなくて。
この「兄と弟」は複雑です。
イワンとアレクセイについては後の方の回でもう少し詳しくお話しするつもりです。
この会話は結局。
人類が神を考え出さなかったら文明も全然なかった、コニャックもなかったですよとイワンに飲み過ぎを嗜められるフョードル。というオチに。
そんな皮肉なユーモアも面白いです。
さて。
次回は趣向を変えて。
私の好きな脇役の面々を一人ずつ紹介したいと思います。
一人目は。二等大尉スネギリョフという人物。
私が歳をとって再読して、最も印象が変わった人物。
再読して良かったと思えた人物です。
次回 その5 脇役の魅力①「すがすがしい大気のなかでも」
前回 その3 信仰のうすい人たち① 地獄に鉤があるなら
その1 はじめに はこちらから
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