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『カラマーゾフの兄弟』再読感想文 その3 信仰のうすい人たち① 地獄に鉤があるなら (全12回)

※これから読む方々のために、物語の結末部分には触れないようにしています。ただ途中経過やおおまかな全体の流れなど、説明上どうしてもネタバレしてしまうと思います。少しでもダメな人はご遠慮ください。



その3 信仰のうすい人たち① 地獄に鉤があるなら

 
 物語の始まりは修道院。主人公アレクセイは見習い修道僧

 「カラマーゾフの兄弟」には宗教が主題となる会話が多いと思います。かなり難しい哲学的な会話から、ちょっとした小話のようなものまで。
 修道院と関係ない登場人物たちも、その考え方生活の中に宗教は深く浸透している感じがあります。

 私はそういう知識や素養がないので。
 正直初読の時はかなり戸惑いました。
 でも何度も読んでいるうちに、次第に心惹かれるようになって。

 宗教という主題はこの物語の根底に横たわっているように思います。わからなくても物語自体は楽しめると思いますが、この主題を語る登場人物たちの心の奥にある感情とか信念みたいなものがなんとなく分かってくると。

 私にとって。カラマーゾフは心震える物語になりました。


 とはいえ宗教モチーフ。
 馴染みがないと少し入りづらいです。

 そこでちょっとした小話的なものから紹介します。
 あまり難しくないもの。皮肉であったり滑稽さであったり。
 会話をする登場人物たちの性格が見えてきて面白いので。
 
 



1、地獄に鉤があるなら

 物語の初めの方。
 帰郷して間もなく、修道院に入りたいと言い出す息子アレクセイに父フョードルが言います。
 

「そりゃ俺だって、地獄を信じてもいいけれど、ただ天井だけはぬきにしてもらいたいよ。でないとせっかくの地獄が何かこう、垢抜けた文化的な、つまりルーテル派式のものになっちまうからな。──中略──だってもし天井がないんなら、つまり鉤もないってわけだ、鉤がなけりゃ、一切ご破算なわけだから、またぞろ信じられなくなってくるからな。だってさ、そうなったら、一体誰が俺を鉤で引きずっていくんだい。なぜって俺みたいな人間を引きずっていかないとしたら、一体どうなる、この世のどこに真実があるんだい?──後略──」

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著 原 卓也訳
新潮文庫 1978年 上巻p.55~56

 この場合の「鉤(かぎ)」は何かを引っ掛けて引きずる鉤爪みたいなイメージでしょうか。

 これに対しアレクセイは「でも、地獄に鉤なんてありませんよ。」「真顔で静かに」答えますが。
 フョードルはそれに対し、それは知ってるけどフランス人が書いてるんだよ。と、フランスの詩人シャルル・ペローの詩を引用して。

だから、ぜひともそれを、その鉤を考え出す必要があるんだよ。俺だけのためにも、特別にな。なにしろ、アリョーシャ、俺がどんなに破廉恥な人間か、お前にもしってもらいたいくらいだからな!

同上 上巻p.56

(アリョーシャはアレクセイのことです。)
(「考え出す必要があるんだよ。」に「イル・フォードレ・レ・ザンヴァンテ」とルビが振られています。フョードルはフランス語で言っているようです。)


 地獄があるなら悪い人間をひきずる鉤があるはず。でも鉤があるならそれをかける天井がなければ。でも天井なんてあったら急に「垢抜けて」しまって地獄のイメージに合わないんだ。
 とフョードルは言っているようですが。

 この場面。この時のフョードルは。
 自分の息子が突然帰ってきたと思ったら、まさか修道僧になると言い出すなんて思っていなかったのではないかなと。(なにしろ彼は子供たちの帰郷の時までその存在を忘れていたくらいですから)
 だからそれに驚きつつ、でもそういえばこれの母親も神懸かり的なところがあったなあ、なんて思ったかも。
 などと私は想像してしまい、面白かったのですが。

 フョードルの、自分を卑下しつつ教会を揶揄いアレクセイを揶揄うようなところ。それからフランス文学の知識もあるところ。卑屈さ、滑稽さと知性

 フョードルの一筋縄では行かない複雑さ。
 
そんな一面が見える面白い会話だと思います。
(フョードルについては次回また、もう少し詳しくお話しする予定です。)


2、信仰のうすい貴婦人

 上巻p.124から始まる「第一部 第二編 場違いな会合 四」の題名は「信仰のうすい貴婦人」。

 この題名からして作者の皮肉を感じますが。

 ここで、ホフラコワ夫人ゾシマ長老の会話があります。
 ホフラコワ夫人というのは。

遠来の地主夫人は、長老と民衆のやりとりや祝福などの光景をあますところなく眺めながら、静かな涙を流し、ハンカチでぬぐっていた。それは多くの面で心から善良な性質をもつ、感じやすい上流夫人だった。

同上 上巻p.125

だそうです。

 彼女はアレクセイと幼馴染のリーザという女の子のお母さんで裕福な貴婦人。ゾシマ長老はアレクセイの敬愛する長老です。
(ゾシマ長老についてはその9と11と12でお話しする予定です。)


 さて修道院です。
 ホフラコワ夫人はゾシマ長老に信仰が揺らいだ時どうすればいいかと尋ねます。(なにしろ信仰がうすいですから。)
 それに対して長老は「実行的な愛を積むこと。」を説きます。
 そこで婦人が答えた言葉がこれ。

もし、お前に傷口を洗ってもらっている患者が、すぐ感謝を返してよこさず、それどころか反対に、さまざまな気まぐれでお前を悩ませ、お前の人類愛の奉仕になど目をくれもしなければ評価もしてくれずに、お前を怒鳴りつけたり、乱暴な要求をしたり、ひどく苦しんでいる人によくありがちの例で、誰か上司に告げ口までしたりしたら、その時にはどうする? それでもお前の愛はつづくのだろうか、どうだろう?

同上 上巻p.135

と思ってしまうのだと告白します。そして

《実行的な》人類愛に水を差すものが何かあるとしたら、それはただ一つ、忘恩だけですわ。

同上 上巻 p.135~136

 なんて言います。

 彼女はさらに。
 実行的な愛にためらいを感じる理由を正直に告白したのはその正直さを誉めて欲しかったからだとも。

 不幸な人々を助けたいと思っても報われないならそんな気になれないと思ってしまう。でもそんなふうに自分が悩んでいると告白することで正直者で善良で高潔だと思われたい。とも思っている自分を自覚しつつ、全てゾシマ長老には見透かされ、そこまでも含めて許されたい。良く思われたい。

 という感じ。
 ちょっとめんどうな人ですよね。
 
 題名の皮肉も相まって。
 やや滑稽な人物に描かれていると思います。

 その滑稽さを笑いながらも。
 でもこういう感じ。「信仰のうすい」現代人? に近いような気も。

 不遇な隣人を憐れみつつも、実際に助けるとなると、相手の態度に腹立たしくなってしまったり。利害や評価を気にしてしまう。
 そんな感じでしょうか?

 宗教に馴染みがなくても、いえ、むしろ無いくらいの方が共感できてしまうエピソードかもしれません。
 

 このホフラコワ夫人という人。
 物語の中心人物ではないのですが、この後もちょこちょこと出てきます。主要人物たちが交わす会話に意見を言ったり、娘のリーザとアレクセイの仲に口出ししたり。「悲劇的な死」の事件には、ちょっと面白い関わり方をします。

 なかなか興味深いキャラクターです。


 さて。
 宗教的小話のような会話。
 もう一つお話ししたいエピソードがあるのですが。ちょっと長くなってしまうので。そちらはまた次回にしたいと思います。

 山を動かすことができる人はいるのかというお話です。



次回 その4 信仰のうすい人たち②  山を動かすことができる人

前回 その2 二匹の毒蛇? 推理小説のような

その1 はじめに はこちらから


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