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幼少期のスパルタ経験

「子供の頃はどんな教育を受けて育ったの?」と聞かれ
思い返せば、幼少期まではかなり時代錯誤な教育だった。

小学校入学までは自由過ぎるほど自由にしていた記憶がある。
幼稚園は楽しかった記憶しかない。
ちなみに、通っていた幼稚園は卒園後になるが、大火事となって今はもう無い。

買い物に付き合わされデパートに行けば、母親の目を盗んであっという間に逃走し、勝手におもちゃ売り場や見たいところで時間潰しをして『そろそろ戻るか~』というタイミングになると綺麗な女性定員さんを探して「僕迷子になっちゃった。名前は〇〇、年齢は〇〇、お母さんの名前は〇〇。放送して呼んでください」とハッキリ伝え、そのお姉さんとお話ししながら、怒っている母親が迎えにくるのを待つという迷子の確信犯をしている子供であった。
こんなことを繰り返していたら、母親に「今日も勝手にどっか行って、アンタの都合で呼ぶようなことしたら迎えに行かないからっ!」と言われた。
っで、いつも通りドロンして勝手に遊んで店員さんに呼んでもらったのだが、待っていても迎えに来ない。相当な時間が過ぎ、ようやく母親が迎えに来たのだが、その頃にはめちゃくちゃ不安になって泣きじゃくっていた。今思うと我ながら面倒くさい子供だったと思うし、この神経戦を制した母親もたいしたものである。

小学校に入ると教育方針が急に変わり、めっちゃ厳しかった。理由は父親が教育に参戦してきたからである。
「勉強しろ!」とは日頃言われることはなかったが、運動会では「徒競走で1位を獲れ!」マラソン大会は「5位以内に入れ!!」とプレッシャーをかけられた。
不幸なのか幸いなのか小学校は家の近くにあり、徒競走の準備として数日前から真っ暗な夜の校庭でスタートの練習をさせられた。
マラソン大会の朝には必ず「スタミナが付くから生卵を飲め!」と言われ、コップに生卵を2~3個入れられ嫌々そのまま飲み込んだ。気持ち悪い記憶しかなく、やる気が削がれコンディションが落ちるだろと思っていた。そして、「マラソンってのは自分との戦いで気合と根性なんだ。5位以内に入れなかったらオーバーした順位分だけ、夜の校庭を走ってこい」という罰則つきだ。
小学2年生の時に7位となってしまい、夕食後に夜の校庭を2周走ってこなければならないのだが、マラソン大会は冬の行事。寒い中、真っ暗な小学校に行くのが怖くて近くの駐車場で時間潰しをして走ってきた風で帰ってきたら「お前。走ってきてないだろ」と詰められて、『なんで自分の家の親父だけこんな厳しいんだ』と悔やみ、半べそかきながら校庭を走った記憶がある。

父親が公務員ということもあり、茨城県大洗町にある福利厚生施設へ夏になると3つ上の兄と連行される。
海に行くってのに全くワクワクしない。ある年には行きたくなくて仮病したのだが、車に乗せられ連れていかれた記憶もある。なぜ行きたくないかというと遠泳試練が待っているからだ。
「よし。スイミングスクールに通っているんだから練習の成果を見せてみろ」という、いつもの言葉から始まる。試練の場所へ向かうゴムボートに、自分達の足でシュコシュコ蹴り続けて空気を入れていく。もちろん親父は手伝わない。行きたくないからチンタラ空気を入れていると、周りは楽しい雰囲気で海水浴をしに来ているのに「早くやれ」とボソッと言われる。ゴムボートが出来上がったら「よし。行くぞ」とボートに乗りオールで漕いで、海辺が微かに見えるかなり遠ざかった遊泳禁止ロープが張ってあるところまで運ばれる。到着すると「よし。岸まで泳げ」とだけ告げる。「プールと海は違う」「岸まで遠すぎる」「海は何が泳いでいるかわからないから怖い」と言ったところで、「とりあえず海に入れ」しか言わない。半ば強制的に海に入ると、ボートに残った父親から「早く泳げ」と告げられる。やるしかない状況に兄貴と一緒に泳ぎ始めるが、自分は兄貴より3つ年下なので体格的にも体力的にも不利だろ~と不満だらけで冷たい海の中を泳ぐ。波のせいで進んでいるのかわからない状況、息継ぎする時に海水が口に入ったり、何か足や体に当たったり、体に藻が絡みついてパニックになっても、岸にたどり着くまで兄弟2人のすぐ後ろをボートで追いかけてくるだけ。死に物狂いで岸にたどり着くと「やればできるじゃねぇか」とだけ言われる。この遠泳試練のお陰なのか、スイミングスクールでは選手コースに選抜された。
兄貴が中学生となり部活を理由に不参加になるまで数年間、夏の恒例の行事として行われた。
このエピソードを年配の女性経営者に話した時には、言葉をつまらせながら「戸〇ヨットスクールみたいだねぇ」という言葉をいただいた。

日曜日の夕方になると「よし。行くぞ」と小学校の校庭に運動をしに行く。行きたくないので「友達と遊ぶ」と言っても「15時までには帰ってこい」とキレる始末。
だいたいの流れはこんな感じ。
まず野球のキャッチボールからスタート。子供に合わせるのではなく大人に合わせた球速なので小学生からすると怖い。ボールを胸に目掛けて投げてくるのだが、怖くて身体が逃げていると「逃げるな」と言われ何度も繰り返される。続いて、ボールを捕球できなくても大丈夫なようにバックネットの前に立ち、至近距離からノックが始まる。もちろんいろんな打球が飛んでくる。こちらもボールから逃げたり、体にぶつかって痛がっていてもおかまいなし。ある日、仕返ししてやろうと親父がノックを辞めようとしても「まだ!まだ!」と言って親父を疲れさせる作戦を決行したのだが、結局200本ノックされこちらが参った。ちなみに小学3年から卒業するまで少年野球に所属しており、ピッチャー&キャッチャー&センターの縦ラインを任されていたのだが、内野ではないので至近距離から打球が飛んでくることはほぼない。
少し暗くなってくるとボールが大きくなって見やすいからという理由でサッカーに切り替わる。インサイドキックでパス交換、1対1、PKという流れだ。パス交換ではトラップミスやしっかり蹴れないと「ちゃんとやれ」と言われ、大人と子供のフィジカル差で1対1をさせられ、心理戦のPKで必ず勝敗をつける。ちなみにサッカー少年団などに所属していないので、体育や遊びの時以外は自分はサッカーをやることはないのだが、親父がサッカー部出身という理由からボールを蹴っていた。
ボールも見えないくらい真っ暗になると球技をやめて相撲が始まる。こちらも体格差があるので勝てるわけもなくヘトヘトになるまで続きようやく帰路につく。
家に帰ると汚れまくっている身体を風呂に入って洗い、夕飯を食べてクタクタで寝るという感じ。
父親からすれば子供達と遊ぶ時間という認識であろうが、遊んでもらっているよりも『無理矢理付き合わされてんだよこっちは!』と思っていた。

勉強については5段階評価になる3年生から学期ごとに成績表のフィードバックがある。対象となる教科は国語・算数・理科・社会・体育。夕食が終わると「成績表を持ってこい」と告げられる。
マルサ(国税庁査察部)仕込みの父親の詰め方がえげつなく逃げ場がない。「なぜそうなったのか?」「どう思っているんだ?」「これからどうするんだ?」という掘り下げの質問が半端ないので、嗚咽やしゃっくりが止まらないくらい泣いてしまうのだが、そんなものはお構いなしで質問に対する回答のみを求められる。なんなら泣いて時間稼ぎしてやろうと思っても泣き止むまでジッと待っている。何時になろうとも。
成績が5については触れられず『なんなら褒めろよ』と思うのだが、4以下の教科については順を追って詰められる。普段の生活が結果に繋がることを嫌というほど認識させられ、今後どのような目標設定をし、それを達成するためには何をやるんだ?ということを息子自身の口から言わないと終わらない儀式なのだ。

中学校入学するまではこんなエピソードばかりなので、時代錯誤というのもご理解いただけるだろう。
そして、今だから言えるが、寝てるところを包丁でブッ刺してやろうかと何度も思ったこともあった。

ただ今となっては、その教育のお陰かメンタル面だけは鍛えられた気がする。
いろいろ紙一重だったと思うが、感謝しています。

時は経ち。。。
昨年になるが、男兄弟3人揃って父の日にサプライズをした。
弟⇒自分⇒兄貴が時間差で次々と実家に現れ、それぞれが用意したプレゼントを渡して談笑し、ゴルフ好きな親父に「親父も入れると男4人だから、皆でゴルフに行こう」と伝えた。その時は、鬼の目にも涙で一丁前に嬉し泣きしていた。その約束はまだ果たされていないけどね。

余談だが、弟は自分の7歳下でこの教育方針は全くと言っていいほど適用されなかった。マラソン大会もビリから2番目だったのに「よく走り切ったな」という言葉をかけていた。成績表もクソ悪いのにフィードバックもなく放任主義であった。
「なぜ、弟だけは教育方針が違ったんだよ」と当時の不満をぶつけてみたら「時代が変わったんじゃないか~」とわけのわからない理由を述べていた。

何よりも凄いと思うのは、この教育を目の当たりにしてもあまり口出しせず、個性豊かな家族全員に毎日手料理を作ってくれた母親の支えだろう。家事育児全般をこなすことは、言葉で表せられないくらい大変だったと思う。言いたいことや我慢することなどたくさんあっただろうが、1番家族のために動いていたのは母親であり、まさに縁の下の力持ちという存在であった。

そんな両親に育てられて思うことは、『息子で良かった』と思ってもらえることが親孝行なのかと思う。
伝えるべきことは言葉にし、思ったことは行動し『感謝』を伝えていきたい。

#この経験に学べ

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