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届くはずのない手紙

どれだけ異質なことが起きても、
その状況が続いてしまうと、それは「普通」になってしまう……

ということは、けっこうあると思います。

歴史を見ると、人種差別なんかは、最初はこんな感じではないでしょうか?

最初は「おかしい」と思っていて、でも声に出せなくて……
やがて差別することが「普通」になっている。

その結果が、ナチスが治めたドイツでしょう。

もちろんそれは良くないことですから、
現在はそれを「反省」しているとか。

ドイツでは歴史教育でそのことについてじっくり考える機会を設けているらしいですね。


ニンゲンですからね。
過ちを犯してしまうのは仕方がないことなのかもしれません。

大切なのは、それを繰り返さないことでしょう。


とはいっても、
それが難しいのもまた事実です。

たとえば学校での「いじめ」

あたしはこの「いじめ」という単語そのものがおかしいというか、
このての行為は立派な犯罪ですので、
それ相応に対応すべきだと思っているのですが……

まぁともかく

いじめは、確実に、様々な形で私たちの周りに存在しています。

ささやかれる嘲笑、無視される日々、時には暴力。

そしてどんな形であれ、それは心に深い傷を残すことになるでしょう。


このような行為は、当事者を孤独にします。

誰も信じられなくなって、いつのまにか自分の存在価値すら見失ってしまいます。

毎日、学校や職場に行くのが怖くなり、やっとの思いで家に帰ると心底ほっとする。

けれども、その安心感も一時的なもので、寝る瞬間になると再び不安が襲ってくる。

次の日が来ることがコワイ。
明日が恐怖に満ち溢れている。

ニンゲンを追い詰めると、こういうことになってしまうんですよね。


よく小学校なんかで、不登校の子どもに対して、
クラスみんなでお手紙とか色紙を書く……
なんてことをしている学校がいまだにあるそうですが、
本気でそんなのが届くと思ってるんですかね。

確かに物理的に届けることはできるかもしれません。
が、それを読んで
「よし、行こう」なんて動機づけることができますかね?

絶対逆効果だと思うんですよね。

どんな声も……届く声であっても……
届かなくなってしまう。

それがいじめであり、
ニンゲンが孤独になる、ということなのでしょうね。


それでも、こういうことが「普通」にあるのが社会です。
それを耐えなければいけない。
当事者であっても、近くで見ている傍観者であってもです。

「それが社会なんだから、それも我慢できないとこの先やっていけないよ」

そんな声がどこかから聞こえてきます。


そういう声を聞いたり、つぶやきを見たりすると、いつも感じます。

そんな環境で、そんな社会で頑張って前を向く必要があるのか?
そこまでして、1度きりの人生を過ごす必要があるのか?

ここまで我慢して創り出す「普通」って、本当に「普通」なのか……と。


※画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。
ステキな画像をありがとうございます。

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