土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』を読んで。
6月に購入した土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』。 8月を終えさまざまなことが一段落し、ようやく静かにひとりきりの空間を整えられた9月に入ってから寝る前に少しずつ読み進めていた。
本書は10歳のころから現在(書籍販売時35歳)に至るまで、ほぼ毎日「死にたい」と思ってきた土門さんが、2年間オンラインカウンセリングを受け「死にたい」気持ちと向き合ってきた記録が記されている。
SNSで多くの読者に『死ぬまで生きる日記』が支持されているのを目にし、人は口にしないだけで俗にネガティブと呼ばれる気持ちを胸に抱えて生きているんだなと思った。
かく言うわたしも「死にたい」が拭えない日があり、「どうして自分は生きているんだろう」と虚しさと共に感じるようになったのは、小学校4~5年生くらいのころからだ。ゆえに、読みながら自身を照らし合わせていた。
土門さんの担当カウンセラー、本田さんの言葉に導かれ扉を開いていった世界の先に新しい色を見つけた気分になった。きっと読んだひとなら「お守りのような一冊」といった感想が多々見受けられる意味がわかるだろう。
わたしにとっても大事な一冊になった。
「『過去』は変えられなくても、捉え直すことはできます」
なかでも特にハッとさせられた部分は、第7章だった。
「過去は変えられなくても、未来は変えられる」なら、これまで何百回と耳にしてきたセリフだ。
しかし「捉え直す」ってどういうことなんだろうと読み進めていたら号泣してしまった。
本田さんは言う。
過去・現在・未来は繋がっているものだが、土門さんの中では『過去の自分』と『今の自分』がうまく繋がっていないのでは?と。『過去の自分』を『悪いもの』と捉え、『良いもの』としてあるのは『未来の自分』だけなのでないかと。
それに対し土門さんは「そういえば私、『過去』って全部嫌いなんです」と返していた。「だって、変えられないじゃないですか」と。
そうだ、どうしたって過去は変えようがない。だからわたしも好きになれないし誇れるものも何もない。
そこで本田さんの口から出てきたのが「『過去』は変えられなくても、捉え直すことはできます」だった。
具体的な例としてあげられたのが、人からもらったものを一つひとつ手にとり確認してみるというもの。
「これをくれた時、その人はRさん(土門蘭さんのこと)に何を伝えたかったのか。どんな気持ちを渡したかったのか。一つひとつの贈り物に、もう一度意味を見出してみるんです」
でも、それって『過去』の愛情ですよね?と返す土門さんに、またまたわたしも首を縦に振る。結局は何もかもが過去へ追い出され、思い出すだけ寂しさが増す。「消えてしまった『過去』」と表現する土門さんにその通りだよ、と頷いていたが、本田さんが断言してくれた。
幾度と断捨離をしてきた。繰り返しても捨てきれずにいたものも、一人暮らしを機に破棄してきた。その中には意図的にもう消したい過去もあったし、申し訳ないけど処分させてもらうねというものもあった。
けれど、一人暮らしを始めた部屋にも早速ひとから贈られた物が鎮座している。
なぜ消えると思っていたのだろう。なぜないものとして見ようこれまで思ってきたのだろう。寂しさがぶり返すから涙がこぼれるんじゃない。自分のために選んでくれた喜びと感動があるから、涙が出るのだ。
抱きしめて眠りたいほど愛おしい。だけどこれを受け取ったのは『今』ではないから、わたしのなかでも相手のなかでも『過去』に抱いた感情で交わされたものだから、どうせ自分など忘れられているだろうし、どうせ、どうせ…そんな風に消してしまいたかったのは自分のエゴだったのではないだろうか。
捉え直す、のヒントをもらえた。
でもきっと、すぐに忘れてしまう。本書内で紹介されている「マザーリング」や「認知行動療法」(わたしにはこれが難しく挫折経験あり…)、そして出会いがあればいずれ訪れる「別れ」とはどういうことなのか。
また、土門さんが母親との関係性を掘り起こしたときに登場した「母性とは絶対的に存在を受け入れるもの。父性とは、社会的、相対的に存在を高めていくもの」という一文が響いた。
それでも忘れてしまうから、この本を傍に置いておきたい。
今まで表に出したことがなかったけれど、わたしも土門さん同様「別れ」がやって来たとき、相手が去っていくのを覚ったとき「裏切られた」って咄嗟に感じてしまうんです。。。
「別れについて、終わりについて」語り合う時間を持つって、大事なのかもしれない。それは決してネガティブなことなんかではなく。
自分ひとりでは持てなかった視点を土門さんが文章にしてくださったおかげで、間接的にカウンセリングを受けているような感覚になれた。土門さんが素直に絞り出す言葉、土門さんに語りかける本田さんの言葉、これは読まなければ体験できない感覚だと思う。
眠れない秋の夜長にぜひ。