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中村佑子さんの『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』を読んで。
重厚で壮大な旅をめぐった。
読み終えてそう感じた、中村佑子さんの『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』。
精神疾患を患うお母様のケアを著者である中村佑子さんご自身が体験されてきている。
昨今突如として注目されるようになった「ヤングケアラー」なる呼称に、一括りにされる複雑さや「ヤングケアラー」でいう当事者とは誰なのか(本来病を患っているひとを当事者と呼ぶのでは?)といった違和感を抱きながら、他者へおこなったインタビューなどが綴られている。
「重厚で壮大な旅」と感じたのは、中村佑子さんご自身の体験から得た感情や感覚、俯瞰的な視点、他者の体験(インタビュー中の相手の表情なども含み)からどんな印象を受け取ったのか…綴られる一行一行には葛藤と共に繊細な力強さが宿っていたからだ。
本書から引用したい文章がたくさんあるが、それを安易にしたくないのは、この一冊を書き上げるまでの過程、流れを抜きに語れないからだと思った。中村さんは途中で書けなくなっている。
そして何度も幼い頃の自分や自身の出産体験、母親を想うとき、インタビューをした他者のことを振り返り哲学的観点を兼ねて細かく見つめ直そうとしているのだ。
人は個別的で他者と切り離された「非連続」な存在であるが、失われた「連続性」への希求をつねに抱えている。
P157より
ケアする者は自己消滅と自己保存(他者との境界が曖昧になる瞬間と自分を取り戻すための活動)の行ったり来たりのを繰り返す。ケア的主体には失われた連続性を回復しようとする力が働らくゆえ、その喜びが自分を破壊してしまいそうな病気の家族のもとへ戻してしまうのではないか。
この辺りの見解は「わかるようでわからず、わからぬようでわかる」。
「ヤングケアラー」ではないが、「機能不全家庭」と称される状況にあった(当時はそんな意識はなかった)自分にも当てはまる部分があるのかも…というか、なんとなく共通項がある気がしていたから本書を手に取ったのだ、わたしは。
生と死について。宇宙から見る自分。「ヤングケアラー」をきっかけに本書を手にして、ここまで思索がめぐるとは思ってもみなかった。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。ちゃんと読んでみようと思った夜。