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『花火と残響』/ササキアイ
140文字以内のTwitter(現𝕏)でアイさんがつぶやかれる言葉、載せる写真、聴いている音楽、それらすべてにセンスの香りが漂っていた。
勝手ながら「しっかりした人」「仕事ができる女性」「頼もしい料理上手なお母さん」「芯の通った精神」というように、軸がブレブレなわたしは憧れの眼差しでアイさんを見ていた。
「何者かになりたい」の「何者」を差す先がわからずとも、アイさんは「何者か側」にいる人だと感じながら。
26編のエッセイが収められている、ササキアイさんの『花火と残響』。やはり綴られている文章は美しく、だけど自分が勝手に抱いてきたアイさんの輪郭がいい意味で崩れていった。それは昨年自費出版された『フリーズドライ』を読んだときもそうだった。
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触れてきたカルチャーや時代が異なっていても、読み手の過去や記憶を呼び起こす一編がどこかにある。
当たり前だけど、通過してきた場所を経てこそ現在があるわけだ。憧れの眼差しから親近感へと変わった瞬間だった。名前も知らない誰かの記念写真に紛れ込んでしまった自分が見つけ出されたみたいに。またはその逆で自分の手元にある写真に紛れ込んで写ってしまった誰かの人生は、今どこを辿っているのだろうと思いを馳せたくなる時間があるように。
それぞれの軌道がたまたま接近した惑星のように、私たちは近づいては交わって、やがて時期が来て離れて見えなくなっていく。すべてはそういうものだからと漂うように生きられたら、避けられない別れも苦しくないだろうか。まだそんな境地には辿り着けないけれど。
出会いと別れを繰り返す日々を生きているから、記憶や思い出のなかには必ず誰かが登場する。アイさんのエッセイにも、いろんな人々が登場する。(人だけとは限らない)誰もが人生に背景があり、心に傷を負っている。著者であるアイさんだってそのひとりだ。
「カブトムシ」というタイトルの胸を掻きむしりたくなるエッセイがガツンときて、この一編があるなしで印象が随分変わる気がした。
また表紙のイラストで、雑踏のなかひとり空を見上げる青年と『花火と残響』のタイトルが絶妙で素敵!
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おまけのエッセイ(何気にサイン入り&おまけエッセイ付きをGETしているのだ、ふふふ)の内容とその紙質。アイさんが撮った写真もエッセイのなかで使用されており、こだわりを感じます。
こんなにも美しく乾いた文章は、彼女が日々を大切に生きてきた証だ。
とは、作家の爪切男さんが帯に寄せている一文。
そうだ、大切に生きてきたからこその視点が垣間見れるエッセイだから、様々な世代の読者に刺さるのだ。夏が過ぎても『花火と残響』の余韻に終わりは来ない。