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「記録」は「書く」の原点―村井理子さんから学んだこと

 「書く」とはどういうことなのか。
 
 村井理子さんの著書『エヴリシング・ワークス・アウト 訳して、書いて、楽しんで』を読み終えて、改めてその問いと向き合っています。

 翻訳家、エッセイストとしての視点を通して「書く」という行為の本質に迫る本書は、わたしにとって羅針盤のような存在となり、内面を掘り下げるきっかけを与えてくれました。


日々の記録が紡ぐもの

 共感を覚えたのは、定期的に文章を書く人なら誰もが抱える「ネタ切れ」への対処です。

 「よくネタ切れしないね?」という問いに対し、村井さんの答えは明快です。日々の出来事や感じたことをGoogleドキュメントにほぼ全て記録しているから、と。毎日、必死に「仕込み」をしていることを明かします。

 このくだりを読んで、思わずうなずいてしまいました。

 長年、第一線で活躍されている村井さんと比べるのはおこがましいのですが、わたしも形は違えど似たようなことを実践してきました。
 
 コクヨの野帳に、手帳に、パソコンのエディタに、iPadのノートアプリに、その時々で形を変えながら、日々の出来事やふと思いついた思考の断片を記録する行為は、「書く」ことと切っても切り離せません。

 日々の出来事だけでなく、心の機微をも記録していく。ネタが尽きることへの危機感から始めた習慣が、実は過去の自分との対話だったのだと、村井さんは教えてくれます。この発見は、大きな示唆となりました。

「書く」ことへの覚悟

 「書く」ことへの覚悟について語られた箇所も、考えさせられました。

 「書きたいと思っていることがあるけれど、傷つけることになるかもしれないから書けない」という相談に対し、村井さんは「それは建前で、本当は自分が傷つくのが怖いということはないでしょうか」。こう指摘します。

 わたしはこれまで「書く」ことに対して、迷いを抱える場面に多く遭遇してきました。それでも、書かなければならない時は確かにあり、「本当に書きたいことなら、書く」という覚悟について、改めて意識させられました。

 兄の孤独な死を題材にした「兄の終い」執筆時のエピソードは、その覚悟を雄弁に物語っています。兄の遺体を引き取りに向かう新幹線の中で、既に記録を始めていたという事実は、書くことを止められない原稿の存在を教えてくれます。

 悲劇的な出来事を目撃した書き手としての使命感。「不謹慎ですが、興奮がありました」という率直な告白。わたしの「書く」ことへの衝動と共鳴するものでした。

 「落ち込んでいる暇はありません。私たちの人生はそこまで長くないのですから」という言葉で締めくくられる本書。下手な啓発本より、ずっと心に響きました。「書く」ことはもちろん、生き方までをも見つめ直す機会となりました。

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はなふさふみ
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