
無口な本屋の店主とのやり取りで、城山三郎さんに助けられた話
経済小説というジャンルを切り開いた作家・城山三郎さん(以下、敬称略)の本が、わたしと無口な店主との架け橋になるとは、そのときは想像もしていなかった。
◇
取材先の書店で、店主に気付かれないよう、小さなため息をつく。強い日差しが朽ちた庇(ひさし)を透かして、店の中まで斜めに差し込んでいた。20代の駆け出しだったわたしには、目の前の課題が大きく感じられた。
昔ながらの商店街にたたずむその書店は、子どもの頃から親しんだ場所の一つだった。学校がない週末、点在する書店をはしごするのが日課で、この店にも立ち寄っていた。教科書の取次をしながら細々と営業を続けているような店だったが、それでも文庫本や新書のコーナーには、わたしの心を捉える本が必ずあった。
店は「うなぎの寝床」という言葉がぴったりの細長い間取りで、左右一本ずつの通路に沿って本が並んでいた。手前には雑誌が、外周の壁面には実用書が整然と配置され、中央には文庫本や新書。品ぞろえは決して潤沢(じゅんたく)とは言えないものの、独特のぬくもりのある空間だった。
店主は、長年の功績がたたえられ、とある賞を受賞していた。「受賞を記事にさせてください」。承諾してくれたものの、態度は素っ気なかった。わたしはレジカウンターの前に立ったまま質問を続ける。返ってくる答えは「うん」「そう」の一言のみ。これだけでも記事は書ける。しかし、店主の本当の声を載せることにはならない。
困り果てたわたしは、目に入った本棚に視線を移した。城山三郎の文庫本が、何冊か並んでいるのが見えた。
話題を変えるつもりで投げかけてみた。
「城山三郎の本、結構充実していますね。わたし好きなんですよ」
少しばかりの思惑もあった。城山三郎は「落日燃ゆ」「男子の本懐」などの作品で、気骨ある日本人の姿を現代によみがえらせた作家。17歳で志願入隊し、戦争末期の軍隊の狂気を目の当たりにした経験から、人の幸福や志が組織の大義によって損なわれてはならないという強い信念を持ち続けた人でもある。
寡黙でありながら、確固たる信念を持っていそうなこの店主にも、気骨さという点で通じるものがあるのではないか。そんな直感があった。
店主はよそよそしい表情を崩さなかったが、わたしが『臨3311に乗れ』や『もう、きみには頼まない』、『官僚たちの夏』といった作品について語り始めると、小さくうなずきながら聞き入るようになった。
78歳で財界初の国鉄総裁に就いた石田禮助(いしだ・れいすけ)の生涯を追った『粗にして野(や)だが卑(ひ)ではない』について熱を込めると、店主の目元に、どこか親しみのある表情が浮かんだ。わたしが最も好んで読んでいた作品だった。
「気骨の作家」と呼ばれた城山三郎のまなざしは、常に人々の暮らしへと温かく向けられていた。その視点を共有しながら語ることで、不思議と店主との距離が縮まっていくように感じられた。
店主は、わたしを店の奥へと招き入れてくれた。
相変わらず寡黙ではあったが、心を開いてくれたようだった。朴訥(ぼくとつ)とした言葉の端々に、店主の思いが垣間見えた。
後日、息子さんから「父は記事を読んでまんざらでもない様子でした」と聞かされ、わたしは胸をなで下ろした。
◇
時は過ぎて、2010年(平成22年)の大型連休。上京していたわたしは、愛用している展覧会・イベント情報アプリ「Tokyo Art Beat」で、城山三郎展が神奈川近代文学館で開かれていると知り、急きょ横浜へ向かった。港の見える丘公園には春の陽気に誘われたカップルたちの姿が目立ったが、わたしの心は静かな感謝の念に満ちていた。
展示室には、自筆原稿や取材ノート、写真など約400点の資料が整然と並べられ、作家の生涯を物語っていた。取材道具の数々に見入ってしまう。ガラスケースの向こうに見える手帳には、几帳面な文字でびっしりと取材メモが記されていた。ひたむきな姿勢に改めて感銘を受ける。
閉館間際まで展示室に留まり、肖像写真の前で立ち止まった。写真の中の穏やかな表情に向かって、わたしは心の中で感謝の言葉を繰り返した。
◇
その書店も時代の波には逆らえなかった。閉店の知らせを聞いたときの虚しさを覚えている。その後、建物は取り壊され、今ではコンクリートの基礎が残るだけだ。
時折、あの書店で交わした会話を思い出す。本は人と人とを繋ぎ、時として心の扉を開く鍵となる——そんな真理を、あの日のわたしは身をもって知った。今も大切な思い出として生き続けている。
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