見出し画像

美術史第88章『縄文美術・弥生美術-日本美術2-』


岩宿遺跡

 日本列島には農業も金属もない旧石器時代から人類が存在していた事が「岩宿遺跡」などから証明されており、ただ、この時代の美術は全く発見されておらず、美術が登場するのは農業が開始し社会制度が出来始めた中・新石器時代にあたる「縄文時代」になってからで、この縄文時代の美術は日本美術史上では他文化圏の美術の影響をほぼ受けずに発展した唯一の時代でもあるだろう。

縄文土偶
縄文の石器

 木製品や繊維製品などの有機物の美術は土中でな分解され残らないため縄文時代のもので発見されるのは土器や土偶などの土製品や、石製品、骨製品で、特に造形の表現が多様で時代や地域の流行がはっきり見て取れる。

様々な縄文土器

 さらに美術的にも優れているのがこの時代の「縄文土器」であり、これには多くの様式が含まれるものの、縄の文様つまり縄文などの様々な文様をつけるというのが概ね共通の特徴としてあり、基本的には料理などの実用に用いられたが、祭祀に使われたと思われるものは機能性にとらわれない派手な装飾が施されている傾向がある。

 縄文人は狩猟採集を中心に栽培農耕を行なって豊富に食料を確保し、土器を製造してそれを用いて生活しており、縄文時代は非常にざっくりとした区分であるため土器から6の時代、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられる。

豆粒文土器
隆起線文土器

 氷河期が終わって定住生活が始まり縄文時代が開始した草創期、土器が作られ始めたのは津軽で発見された土器の1万6500年前よりも以前と考えられ、これは世界最古級の土器文化と言え、九州北西部の北松浦半島の「豆粒文土器」や南九州と北松浦で作られた「隆起線文土器」が代表的な様式となっており、この時代にはまだ縄文は付けられていない。

 土器の中心として繁栄した九州だったが、早期の時代に入ると約7300年前の鬼界カルデラ大噴火により殆ど滅亡したと考えられ、その後1000年にも亘り九州は無人化、それ以降、縄文人の中心地は東北地方から関東地方に移り、そこで現代人がよく知る様々な縄文土器が展開された。

火焔型土器
亀ヶ岡式土器
刻目突帯文土器

 中期の時代には土器と土偶の造形が全盛期を迎え、有名な「火焔型土器」などが誕生、晩期には用途に応じて様々な形が作られ、この頃には愛知県あたりを境に「亀ヶ岡式土器」などの装飾的なものが多い東日本文化圏と「刻目突帯文土器」などの簡素なものが多い西日本文化圏に分かれていた。

ハート型土偶
みみずく土偶
縄文のビーナス

 また、土器と共に発展した土偶の分野ではハート型やミミズク型などの多くの形が作られており、この土偶は豊穣祈願など呪術的な意図がある恐らく人体を限界までデフォルメした表現がされたものなのではないかとされ、実際、ほとんどの土偶が祭祀による破壊を受けた状態で発見されており、著名な作品としては長野県から出た「縄文のビーナス」がある。

朝鮮の無文土器
弥生土器
稲作
吉野ヶ里遺跡

 紀元前10世紀頃、九州北部に稲の大規模な農業と青銅器・鉄器などの金属技術が朝鮮半島南部から持ち込まれ、温帯型ジャポニカ米の水田を中心とした階級社会が形成され定期、当時、朝鮮半島に存在していた「無文土器」の技法や彩文で縄文晩期の西日本の縄文人が作っていた刻目突帯文土器の形を作るという「弥生土器」が確立された。

続縄文文化の副葬品

 弥生土器には刻目突帯文土器と無文土器の簡素な作りがそのまま受け継がれ、紀元前3世紀頃から日本各地に広まったが東北北部や北海道では稲作が寒すぎて不可能であり弥生文化が広まらなかったことから、「続縄文文化」と呼ばれる縄文文化が継続される時代となり、この続縄文文化はやがて「擦文時代」を経て日本や北方の影響を受け「アイヌ文化」へと変化することとなる。

貝塚時代

 また、南西諸島(沖縄)でも弥生土器の伝搬は遅く、大隅諸島では早くに弥生文化が定着、奄美諸島では貝交易の活発化から弥生中期に伝わるが後期には弥生土器との差異が大きくなっており、沖縄本島や先島諸島には全く伝わず「貝塚時代」がしばらく続いた。

高杯
吉野ヶ里遺跡の甕棺墓列
特殊器台・特殊壺

 弥生土器は例えば縄文時代には煮炊きに使われた深い土器が蓋を被せる形の甕に変化して米を貯蔵するのに用いられるなど縄文時代の伝統を受け継ぎつつ弥生文化に適応させたようなもので、食器として用いられた「高杯」、冠婚葬祭・祭りに使われた「甕棺墓」や「特殊器台・特殊壺」などは弥生文化の特徴と言え、また、弥生文化では縄文の土偶のように人物を描写することが全くなくなり土偶は前期には作られたが結局消滅している。

銅鐸

 弥生時代には土器の他にも多くの鉄製品や青銅製品が発見されており、その中でも釣鐘を平にしたような形をした青銅器である「銅鐸」は弥生を代表する美術形式であるといえ、期限は朝鮮半島の無文土器文化にあったと思われるが、そこから日本で独自の発展を遂げたとされ、当初は実際に音を出す鐘としての役割を持っていたが、次第に形式化して祭りに使われる道具となっていった。

 銅鐸の形状はほとんど共通しているものの大きさや表面の装飾は様々で素朴な絵画が描かれたものも存在し、現在では茶色と緑が混ざったような色になっているものの、作られた当初は金色に輝いており、所有者の威厳を示したとも想像され、銅鐸の他にも銅で作られた剣なども祭具として使われていたことがわかっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?