美術史第40章『モダニズム建築』
絵画や工芸、彫刻が様々に発展を遂げた20世紀芸術であるが、建築の分野ではオーギュスト・ペレというフランスの建築家により鉄筋コンクリートを用いた建築技法が導入された事で、構造体としての抵抗力の強さや自由な造形性を獲得、20世紀の建築は新たな時代を迎えることとなった。
この鉄筋コンクリート建築が広まっていくと最も有名な建築家の一人であるフランスのル・コルビュジエによって作られた緩やかな局面と巨大な屋根という「ロンシャンの礼拝堂」や、三大巨匠とされるアメリカのフランク・ロイド・ライトによって作られた部屋が突然突出したような形状の「落水荘」や妙な段々構造の「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」などに代表されるような非常に自由な造形の建築物が誕生した。
また、コルビュジエやライトが活躍した頃は、建築家の仕事自体が20世紀初期までは建築物を完成させて終わりだった所から第一次世界大戦後の繁栄期「狂騒の20年代」には社会における機能や意義への配慮が必要となり建築家という職業の社会的な役割自体が変化していっていた重要な時代であったと言える。
この機能性を重視する考えを持ち近代的な鉄筋コンクリートなどで作られた建築様式は「モダニズム建築」と呼ばれ、特にモダニズム建築の四大巨匠の一人で「パンナムビル」などの建築者であるドイツのヴァルター・グロピウスはこの建築家の役割の変化を背景に工芸・写真・デザインなど建築と美術の総合的な教育を行う学校「バウハウス」を第一次世界大戦でドイツ帝国が滅んだ後のドイツの首都だったヴァイマールに設立している。
この、「バウハウス」の中で生み出された合理的なデザイン技法は現代社会の製品の基礎となっているとされ、先ほど名前の出たル・コルビュジエなどモダニズム建築家の全てはこの合理的な機能性重視の建築を最も探求、このモダニズム建築様式からはグロピウスや、コルビュジエやライトと共にモダニズムの三大巨匠に数えられるドイツのルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエなどの優れた建築芸術家が誕生することとなった。
モダニズム建築の様式は、20世紀にできた大量生産体制と結び付き、合理的な形態や規格化、部材を予め製作しておくプレハブ工法などいかにも現代的な建築法を生み出し、現在の巨大建築が並ぶ都市世界を作り出すこととなった。
ただ、その一方で、このモダニズムの機能主義建築を「機械的で冷徹」としたシカゴ派のルイス・サリヴァンや、先述したフランク・ロイド・ライト、スペインのモデルニスモのアントニ・ガウディなどの建築家達は有機的な建築様式も促進していた。
また、20世紀には今まで美術繁栄地ではなかった北欧でもアルヴァ・アールトや、グンナール・アスプンド、アルネ・ヤコブセンなどの著名な建築家が活躍していくこととなる。
その後、ソビエト、アメリカ、イギリスがナチス・ドイツ、ファシズム・イタリア、大日本帝国の枢軸国を滅亡させた第二次世界大戦後、勝利しはしたが植民地のインドなどを失ったイギリスや、ソビエトとアメリカに分割されて滅亡したドイツ、植民地を失いアメリカに占領された日本など非常に強力な国がアメリカとソビエト以外衰退した事で、ソビエトの影響下の社会主義勢力とアメリカの影響下の資本主義勢力が戦う「冷戦時代」が開始する。
すると多くの建築家が戦地となったヨーロッパからアメリカに亡命し特にバウハウス関連の建築家であるグロピウスやローエなどによる建築教育や設計活動が行われた事で、以降の時代の建築はアメリカを中心に展開されるようになり、アメリカには多くのモダニズム建築が誕生、その後の1950年代まではモダニズム建築が建築分野のスタンダードとされていたが次第にモダニズムに反発する動きが見られ始めた。
1956年には建築家達が集まり討論を重ねた国際会議「CIAM」が解散され、地域や用途、建築家の好みにより造形を自由に変える個性化のような流れが起き、一時的には「ブルータリズム」というモダニズムの復興運動も起こるが、1980年代には合理的で機能主義的なモダニズムとは逆行し装飾性や折衷性、過剰性などを持った「ポストモダン建築」が大流行した。
ポストモダン建築の最も代表的な建築家としては大戦後の日本の復興を行った丹下建造やイタリアのレンゾ・ピアノ、アメリカのフィリップ・ジョンソンなどがおり、他にもロバート・ヴィンチューリ、マイケル・グレイヴス、ジェームズ・スターリング、ベルナール・チュミや、丹下建造の弟子磯崎新、黒川紀章、槇文彦などが有名であり、その様式の代表的な作品としては「ソニービルディング」「ラ・ヴィレット公園」「東京都庁舎」「JR京都駅」「東京都江戸東京博物館」などがある。