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アイヌの歴史20『オホーツク文化-中編(粛慎の記録)-』

 オホーツク文化の人々を指す可能性がある記録の中で最古のものは544年、佐渡島に粛慎(ミシハセ or アシハセ)という人々がやってきたという記録である。

女真(粛慎)の地域

 この粛慎の漢字はツングース系諸民族を指して中国で使われた粛慎(シュクシン)という民族の漢字と全く同じだが、粛慎は前11世紀から前3世紀頃まで使われた言葉でその後は記録が一旦途絶え、1世紀から4世紀には挹婁、5世紀から6世紀の勿吉、6から10世紀には靺鞨、10から16世紀まで女真、16世紀から現在にかけては満州族と呼ばれており、佐渡島にやってきた当時にはすでに粛慎という名前が使われなくなって九百年が経っており、中国には勿吉や靺鞨と呼ばれていたため、関連性があるとするのは難しく、全くそれとは関係ない民族がやってきたと考えていいだろう。

佐渡島

 また、『日本書紀』の中の544年の記録では、省略や現代語訳を行なって簡単に記すと『越国(北陸)からの報告では佐渡島の北の御名部(みなべ)という海岸に粛慎という民族が船に乗ってきて留まっており佐渡の人は異国人や鬼と言って近づかない様にしており、その後、誰かの占いで出た結果の通りに粛慎が村を襲撃、以降、粛慎は瀬波河浦(せなみかわのうら)と呼ばれる地域に移ったが、そこの水を飲んだ粛慎の多くが死亡、多くの骨が岩穴に溜まりそこは今では粛慎隈と呼ばれる。』みたいな感じの事が書いている。

欽明天皇5年(544年)原文
越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。
嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。
於是肅愼人移就瀨波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。

 ここで記されているのは普通の蝦夷の可能性もあるが、わざわざ蝦夷や狄、戎、夷ではなく粛慎というよくわからない名称を使った理由が説明できない。

 しかし、オホーツク文化の人々であるという説以外にも、遠い昔に粛慎という名前で呼ばれ6世紀当時は靺鞨と呼ばれた人々をなぜか古い名前で読んだという可能性、また、それらとは別の北方民族の可能性なども考えられ、この記録の粛慎は確実にオホーツク文化人とはいえない。

 次に古い記録は640年、「流鬼国」という国が唐の李世民の時代の中国に一度だけ朝貢を行なったという中国の記録で、それ以来、朝貢の記録は一歳ないため詳細は全く不明でカムチャッカ半島の説もあったが、そこは「夜叉国」と呼ばれ、また、豚の飼育や大陸との交流など歴史的記述と考古学的証拠が一致していることオホーツク文化の人々と思って良いだろう。(*ネットにある地図の多くは流鬼国カムチャッカ説を採用している)

 また、当時の中国では『唐会要』などの記録から西の果てをペルシャ、東の果てを流鬼国と考えていたようで、『資治通鑑』および『新唐書』の記述では流鬼の王子である可也余志に対し、わざわざ最果ての人々が乗馬を覚えて朝貢したのが評価されたのか「騎都尉」の位を授けている。

『通典』より流鬼国の記述
流鬼在北海之北、北至夜叉国、餘三面皆抵大海、南去莫設靺鞨船行十五日。無城郭、依海島散居、掘地深数尺、両辺斜豎木、構為屋。人皆皮服、又狗毛雜麻為布而衣之、婦人冬衣豕鹿皮、夏衣魚皮、制与獠同。……中略……靺鞨有乗海至其国貨易、陳国家之盛業、於是其君長孟蚌遣其子可也余志、以唐貞観十四年、三訳而来朝貢。初至靺鞨、不解乗馬、上即顛墜……(後略)

ヒグマの分布図

 次の記録は『日本書紀』の中にある658年の記録で、蝦夷を服従させて回っていた阿倍比羅夫が粛慎と戦闘し勝利、ヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上したという記録で、ヒグマは北海道やそれより北にしか生息していないため、粛慎という存在は北海道にいるという事がわかる。

斉明天皇4年(658年)原文
是歲、越國守阿倍引田臣比羅夫討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。

 阿倍は翌年の659年にも粛慎に勝利し捕虜を39名献上、すぐ後の660年には阿倍比羅夫が200隻の船を引き連れて粛慎征伐に出発、北海道に到着してすぐに、前の蝦夷への遠征の中で友好関係を築いた渡島(ワタリシマ)、要するに北海道の蝦夷、つまり擦文時代のアイヌから粛慎をどうにかして欲しいという懇願を受けており、蝦夷と粛慎は対立していた事がわかり、そして安倍はそのまま粛慎の退却を追いかけて本拠地の「弊賂弁島」も陥落させ、その中で軍の能登馬身龍は死亡、粛慎は勝敗が判らないうちから妻子を殺したと記録が残る。

斉明天皇5年(659年)3月 原文
或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻虜卅九人。

斉明天皇6年(660年)3月 原文
遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側。
於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣」。
阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。
阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。
阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。

 この弊賂弁島の場所に関しては当時、オホーツク文化の分布域の最も南の端となっていた奥尻島であるという説や、樺太である説などがあるが不明である。

 粛慎にはその後も660年の蝦夷が五十人献上されてそれが粛慎に渡された記録、676年の新羅の使者金清平に粛慎7名が従っていた記録、694年の務広肆(むこうし)の身分を唐人7名と粛慎2名に授けたという記録、696年の渡島、つまり北海道の蝦夷、つまり擦文時代のアイヌの族長である伊奈理武志(いなりむし)と粛慎の族長である志良守叡草(しらすえそう)に綿で出来た衣服や赤い太絹、斧などを下賜、つまり与えたとする記録などがある。

斉明天皇6年(660年)5月 原文
又阿倍引田臣<闕名>獻夷五十餘。(中略)以饗肅愼卌七人。

天武5年(676年)11月 原文
丁卯、新羅遣沙飡金清平請政。(中略)送清平等於筑紫。是月、肅愼七人從清平等至之。

持統8年(694年)1月23日 原文
以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。

持統10年(696年)3月12日 原文
賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。

 また、遠い昔に粛慎と呼ばれていた大陸の靺鞨人に関しても720年の津軽の津司の諸鞍男ら6名の使節を送っているなど国交があったようで、Wikipediaのページではまとめて粛慎の記録として扱われている。

養老4年(720年)正月23日
遣渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男等六人於靺鞨国、観其風俗。

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