美術史第93章『鎌倉文化の美術-日本美術7-』
平安後期に政権を握っていた武家である平氏は、皇族からの挙兵命令によって関東の武家である源氏勢力と「源平合戦」を行い、源頼朝は関東武士団を支配下に入れてその後に東海道・東山道を影響下に置き、最終的に「壇ノ浦の戦い」で弟の源義経ら率いる軍によって平氏は滅ぼされた。
政権を掴んだ源頼朝は荘園や公領を支配する地頭と国単位で設置された知事や軍事司令官である守護を設置、政治を行う「政所」、裁判を行う「問注所」、軍事・警察を行う「侍所」を設置し武士による国の統治体制を確立した。
これ以降、関東の鎌倉を中心とした「鎌倉幕府」による「鎌倉時代」が開始し、数年後、奥州合戦で東北で繁栄していた奥州藤原氏を討伐、した頼朝は征夷大将軍、つまり国の最高指揮官に正式に就任、ただ、当時は鎌倉幕府はあくまでも朝廷の支配下で東日本を中心に統治している地方政権であった。
鎌倉幕府では初期から度々反乱が発生しており、その時代の中で北条氏が幕府の実権を掌握して「執権政治」が開始、北条氏に仕える武士である御家人も力を持ち、彼らによって「御成敗式目」などの法整備が進み、その後には「得宗専制」の時代となる。
また、1222年には後鳥羽天皇率いる朝廷が鎌倉幕府から政治の実験を取り戻すための承久の乱を起こすが幕府はこれに圧勝し、多くの御家人が西日本の領主となったことで、今まで関東に集中していた幕府の統治や西日本にも及び、天皇は地方政権だった幕府の支配下に置かれている。
鎌倉時代の日本は武士が各地を支配し安定をもたらしたことにより開拓が進み、経済成長を遂げて武士や庶民による「鎌倉文化」が繁栄、宗教的には幕府が中国文化の導入に積極的であったため道元や明菴栄西などの宋王朝へ留学した僧侶により達磨を始祖とする「禅宗」が伝わり、天台宗の比叡山などの勢力の圧力などもあったが勢力を急速に拡大させ建長寺や円覚寺などが建立され、他にも法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の法華宗など多くの宗派が生まれた。
また、源氏と平氏がせめぎ合った源平合戦では京都以前の首都だった奈良への攻撃、いわゆる「南都焼討」が行われ、当時二大仏教寺院とも言える立ち位置だった東大寺と興福寺の両方が炎上、東大寺の大仏や興福寺の堂宇や仏像は直ちに再建が開始されたのだが、東大寺復興をおこなった重源が宋王朝への渡航経験のある僧であったことから宋王朝の様式で再建され、この様式は「大仏様」と呼ばれる。
興福寺や東大寺の新たな仏像の作成は、仏像を作る彫刻家である「仏師」の中でも「慶派」に属す運慶や快慶などによって行われ、慶派の彫刻としては東大寺の金剛力士像、重源上人像、僧形八幡神像、興福寺の北円堂弥勒仏坐像、北円堂無著・世親像、金剛力士像、金剛峯寺の八大童子像、浄土寺の阿弥陀如来、三十三間堂の千手観音坐像、二十八部衆像、千体千手観音像、風神像・雷神像、東寺の弘法大師坐像、六波羅蜜寺の空也上人像などが有名で、慶派以外でも高徳院の阿弥陀如来像、吉野水分神社の玉依姫命像、浄瑠璃寺の吉祥天立像、伝香寺地の蔵菩薩立像、明月院の上杉重房像などの有名作品が作られたが、鎌倉後期には衰退する。
建築分野では中国南部由来の「大仏様」の浄土寺浄土堂や東大寺の開山堂や南大門、中国北部由来の「禅宗様」の功山寺仏殿、善福院釈迦堂、安楽寺八角三重塔、鎌倉以前から日本にあった「和様」の石山寺多宝塔、霊山寺本堂、唐招提寺鼓楼、大山寺本堂、和様と外来の様式が混ざった「折衷様」の明王院本堂、浄土寺本堂、観心寺金堂、鶴林寺本堂、などの仏教寺院が作られた。
他にも現在は寺院になっているがかつては武家の足利家の屋敷だった「鑁阿寺」に代表される「武家造」という簡素で実用的な武家の理想とされる建築様式も誕生した。
庭園の分野では平安時代に引き続き極楽浄土を再現する「浄土式庭園」が行われ「金閣寺」や「瑞泉寺」などは特に有名で夢窓疎石に代表される「石立僧」という庭園を作る僧侶も出た。
また、書道の分野でも寺院と同じく中国様式の影響が強くなり後に武士の共通字体となる「御家流」もここで誕生し、絵画の分野では平安時代に続いて「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵詞」「奥州後三年記」「石山寺縁起絵巻」「春日権現験記」「粉河寺縁起絵巻」「一編聖絵」「紫式部日記絵巻」「男衾三郎絵詞」などの絵巻物が多く作られた。
他にも自由な発想や写実性を特徴とする仏画や似絵、つまり肖像画も描かれ、特に僧侶の肖像は「頂相」と呼ばれる。
工芸では武士の台頭から鎧の染織が発達し大山祇神社の赤い鎧などがつくられた他、鎌倉後期には鎧を勝利祈願のために神社に奉納する風習ができたことから櫛引八幡宮や春日大社の鎧のように装飾性が強まり、刀剣は山城の来派、備前の長船派や福岡一文字、備中の青江派、鎌倉の正宗の流派などが誕生し外国への輸出品にもなったとされ正宗に代表される著名な刀鍛冶が多くの名品を作成、漆器では形が端正、模様は写実的になり、貝で装飾する螺鈿が誕生、金属工芸は仏塔や梵鐘が増加しその装飾として行われた。
陶磁器では院政期文化の時代に「山茶碗」という大衆向けの大量生産品が作られそこから「常滑焼」や「渥美窯」が現れ、鎌倉時代には山茶碗誕生の地である尾張では中国の影響により「古瀬戸」と呼ばれる人工的に釉薬を施した日本初の様式が誕生、常滑焼からは「信楽焼」「丹波焼」「越前焼」など、古墳時代から続く須恵器からは「備前焼」がすでに誕生して出回っており、これらは常滑・信楽・丹波・越前・備前・瀬戸は「六古窯」と呼ばれ特に広く流通、他にも高度な磁器に関しては中国や高麗からの輸入品を貴族が使い、古代からの「土師器」も祭祀用の「かわらけ」として製造され続けた。