天文学史9『近世ヨーロッパの天文学』
中1の時に書いた奴ですがルネサンス時代の天文学の方とダイレクトに繋がっているのでそっちも見てください
その数十年後、イングランドのアイザック・ニュートンが著書「プリンキピア」の中で質量、運動量、力、慣性など基本的な物理的な概念を定義、宇宙の全ての物質は互いに引き合う重力を持つとする万有引力の法則の発見、さらに慣性の法則や作用反作用の法則を発見し、幾つかの物体同士に働く力について研究する力学という科学を新たに確立し、天文学では太陽系の構造について、ケプラーの地動説を支持し自身の発見した重力などの法則で、そもそもなぜ回っているのかなども説明し、ケプラーの天体は楕円状に太陽の周りを回るという説を証明、他にも天文学にも関連する光学においては白い光は様々な色の光(単色光)が集まったもので、白い光がガラスなどを通して虹色になるのは、それぞれの色の光の進む速度(屈折率)が異なる為、別れて見える事を発見し著書「光学」を発表、オランダのホイヘンスの光は波動、つまり波のような物であるという説に対立し、光が粒子、つまり小さい物であるとしたが現在では粒子と波動の二重性を持つとされる、要するにどっちも正解であった。他にも、高温の個体が気体や液体の中で冷却されるというニュートン冷却の法則や、ホイヘンスが発見した外部から何らかの影響がない限り、物の運動量は同じであるという運動量保存法則を用いて、音速についてや、太陽のように光る恒星の正体について言及しており、数学ではドイツのライプニッツとともに微分積分の父とされる。
このように、天体がどの様に動くのか、そしてなぜ動くのかというところまでがニュートンらによって明かされた訳だが、ニュートンの住んでいたイングランド、つまりイギリス以外では、ニュートンの理論が完全に浸透するのは時間がかかり、フランス周辺では合理主義哲学の祖で近代哲学の基礎となった哲学者ルネ・デカルトの唱えた、粒子は渦状に動き、それにより天体は回るという渦動説が主流で、この説はガリレイやニュートンは鼻で笑ったが、土星の輪やオリオン大星雲を発見、世界で初めて火薬を用いたピストン機関を開発、光の波動説を唱えたクリスティアーン・ホイヘンス、哲学において単子論や予定調和論を唱え、数学ではニュートンとは別に独自に微分積分法を発見、数学的な概念を記号で表す試みや計算機の開発を行なったゴットフリート・ライプニッツ、パリ天文台で当時発見されていた太陽系の凡ゆる天体の正確な動きの表を作成、ニュートン力学の論とは違う、地球が長球であるという主張をデカルトの論を元に行なったジャック・カッシーニなどはデカルトを支持した。
18世紀には、レオンハルト・オイラーという学者が活躍、オイラーは解析学や数論で把握しきれないほど膨大な発見をし、他にも多面体定理の提唱や関数の導入などを行い、物理学ではニュートン力学の幾何学的、つまり図形的っぽい表現に解析学を導入、また、力という概念を定義し、地球が円を描くように振れる歳差の最中、地球が少しだけぐらぐらする章動という現象を、連続の方程式やオイラー方程式で数学的に解明、力の作用の中でも変化しない物質、剛体というのを仮定して力学を論じ、オイラーの運動方程式を見つけて発展させ、力学の発展にも大きく貢献したが、ニュートンの重力の概念は支持せず、オイラーと並ぶ18世紀最大の数学者であるとされるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは解析学の研究を行い最小作用の原理を発見し、ニュートン力学を再び形に収めたラグランジュ力学を創始、オイラーと共にお互いの重力の釣り合う安定した五つのポイント、ラグランジュ点を発見、他にも四平方定理の発見、質量保存の法則、フロギストン説、酸素発見などで知られるらヴォアジエと共にメートルやキログラムなど標準的な単位を定着させるのに務め、ラグランジュと同じ頃、著書で剛体や流体の運動、ラプラス変換や古典制御論などで微分方程式を発展させたフランスの数学者、ピエール・シモン・ラプラスは太陽の周りを回る小さい物質が固まって惑星が誕生したという星雲説を提唱、ニュートン力学はより整理され、星の誕生もなんとなくわかってきた。
また、他にもここら辺の時代には、エドモンド・ハレーという南半球の星図や地磁気図の作成、動かないと考えられていた太陽が固有運動を行い動く事を発見、死亡年齢の人口統計作成、太陽と地球の距離の測定法発見、ハレー彗星の予測などで知られ、ニュートンに「プリンキピア」を書かせて自費で出版した学者や、ジョン・フラムスティードという日食を正確に予測した事で王室に雇われグリニッジ天文台の建設を行い、著書の「天球図譜」は航海や測量の基礎となり、東経と西経を分ける本初子午線がグリニッジ天文台に置かれる理由となったが、ニュートンへ提供した資料で揉めて決裂した学者、ウィリアム・ハーシェルという望遠鏡を作成し月の山の高さや二重に見える星(二重星)の記録を行い、天王星という新たな惑星を発見しその後も数多くの望遠鏡を作成、他にも二重星がお互いの重力で引きつけあってお互いにお互いの周りを回っている事を発見、太陽系以外でもケプラーやニュートンの唱えた運動がおこっていると確認し、また、太陽の動きから太陽系は星の集合体、天の川の中を移動していると気づき、天の川の図の作成を試みた学者などが活躍しており、ヨハン・ボーデというメシエカタログで数多くの銀河・星雲・銀河を発見し、天王星に名前を付けた事などで知られる人物が惑星と太陽の距離は大体、簡単な数列で表せるというティティウスとう人物の考えを体系化してボーデの法則を提唱、火星と木星の間に不自然な間が空いている事が判明するが、その後、その間に数多くの小惑星が発見された。
また、この頃には遠くに輝く星々が遠くの太陽のような存在で、それらの周りには惑星が回っているという事実に気付く人が現れ、まず、最初にこの説を提唱したのは、コペルニクス理論を受け入れたイタリア南部の学者、ジョルダーノ・ブルーノという人物で、ブルーノは、宇宙は無限で中心など無い事や、地球が回転しているのであって星座達が回転しているわけではないという事、宇宙は特別な物質でできているのではなく地球にあるような普通の物質で出来ている事など現在の天文学のような事を計算で証明とかではなく、哲学や神学として提唱、その中で、太陽系の他にも多くの惑星が存在しているとし、その百年ほど後にはフランスの学者ベルナール・フォントネルが他の輝く星々にも惑星がくっついているという理論を中心に、フォントネル自身とG公爵夫人という架空の人物が天文学について語るという「世界の複数性についての対話」という本を出し、これがヨーロッパ中で爆発的にヒット、人々は他にも惑星系がある事を信じるようになり、18世紀初頭には恒星を扱う天文学の基本となった。ちなみに、この惑星系が沢山あるという理論は紀元前5世紀のギリシアのアナクサゴラスや前4世紀のアリスタルコスにより唱えられていたが支持されず定着しなかった。それと、ブルーノは様々なキリスト教に反した哲学を持っており、火刑に処され、死後は著作が禁書目録になって禁止、フォントネルの著作も禁書目録に載って、カトリックに禁止されたが、関係なく30回以上発行された。