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美術史第68章『イスラム・ペルシア美術-後編-』


セルジューク朝

  繁栄を極めたセルジューク朝だったが11世紀末期にはセルジューク家で内戦が開始し弱体化、サンジャル王がガズナ朝、ゴール朝、カラハン朝を服属させるなどして復興を行うが、金王朝に遼王朝を滅ぼされた契丹族の中央アジア侵略による混乱で滅亡し、地方国家の一つだったホラズム・シャー朝がセルジューク朝の広大な領土を手に入れた。

ホラズムの正式領土

 ホラズムは13世紀前半にはカリフのアッバース家の居るイラクも事実上は手に入れ、ゴール朝やカラハン朝も滅ぼし大帝国を築き上げ、同時期にはアナトリア半島で生き残ったセルジューク朝の残党勢力のルーム・セルジューク朝も繁栄した。

チンギス

 しかしそれと同時に13世紀にはモンゴル高原の諸部族がテムジン(チンギス・ハン)により統一され、天山などがこれに服従、契丹族が建国していたカラキタイ、中国北西部のタングート族の西夏が滅ぼされ、ホラズム・シャー朝も使節団を殺した事を発端に攻撃されジャラールッディーンの対抗も失敗してしまい滅亡した。

チンギスの大遠征
攻撃されるバグダード

 その後には中国北部を支配していた女真族の金王朝も翌年に滅亡、数年後には東欧のキエフ大公国も併合、そして1258年にはイスラム教の頂点であるアッバース家の本拠地バグダードが破壊され、アッバース家はマムルーク朝に亡命した。

モンゴル

 モンゴルによって侵略された西アジア地域はチンギスの孫フレグの建国したイルハン朝の領土となり、アナトリアのルーム・セルジューク朝もこれに服属、キエフやキプチャク=クマン、ヴォルガ・ブルガールのあった中央アジア西部から北東ヨーロッパ、北アジアの地域は同じくチンギスの孫のバトゥのキプチャク・ハン国、中央アジアの東部や南部はチャガタイ・ハン国に継承された。

 この三つのハン国は名目上フビライの建国した東アジアを支配する元王朝に服属し、「モンゴル帝国」という緩やかな連合になっているものの、実質的に独立国家だった。

イスラムに改宗するガザン・ハンの集史の挿絵

 西アジアの大部分を支配したイルハン朝は、支配層の東アジアの遊牧民であるモンゴル人が現地のペルシア人に同化され、定住生活を始めると建築が多く行われ始めた。

Dome of Soltaniyeh

 ここでは東アジアの遊牧民の影響で南北の方向に建物を作るといった伝統も受け継がれながら、イスラム教による国家統治を始めた王オルジェイトゥにより新しい首都としてソルターニーイェが建設された。

スルターナバード彩

 これ以降、イルハン朝はイスラム教国家となり、イスラム文化が大きく繁栄、その中で宰相ラシッドゥッディーンにより編纂された世界最初の世界史の書とされる「集史」の写本に描く挿絵などから「ペルシアの細密画(ミニアチュール)」様式が誕生し、藍色や金箔を特徴とするラージュバルディーナ彩やラスター彩の技法を用いたスルターナバード彩などの陶芸技法も発展した。

サライの宮殿の破片

 一方、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス、ゴールデン・オルド)が支配していたペルシア北部の美術についてはあまり知られておらず、建築の分野では首都のサライなど新たに建設された計画都市が存在した事、金細工や銀細工が発展しその大部分に中国から強い影響が見られる事などがある。

イルハン朝のラスター

 イルハン朝の宮廷で発見されたラスター彩の模様のモチーフに龍や鳳凰が用いられるなど中華文明の影響下にあった遊牧民であるモンゴル人はそのままイスラム美術に中国美術の要素を伝えていたといえる。

ティムール

 一方、中央アジア南部・東部を支配したチャガタイ・ハン国は14世紀初頭にモンゴルの王族カイドゥが建国したカイドゥ・ウルスを併合し拡大、しかし、1340年頃には東側のモグーリスタンと西側のヤルカンドに分裂し、ヤルカンドは多くの有力貴族の群雄割拠になり、その中で没落貴族のティムールが勢力を拡大、モグーリスタンがヤルカンドを滅ぼした際にこれに協力、その後、モグーリスタンから独立しモグーリスタンを征服した。

ティムール朝

 ティムールは14世紀中頃にイルハン朝が内乱で消滅したためその領土の西アジアも併合、キプチャクハン国のトクタミシュとの戦争に勝利し首都サライを破壊、14世紀末期にはインドのデリー・スルターン朝の首都デリーを占領、15世紀初頭にはマムルーク朝エジプトに勝利しシリア、イラクを占領、ルーム・セルジューク朝崩壊後にアナトリアを統治していたオスマン帝国も一時的に滅ぼした。

ビフザードのユスフとズレイカの挿絵

 ティムール朝では首都ヘラートを中心に画家ビフザートなどの活躍などによりペルシアの写本芸術、ミニアチュールは黄金期を迎え、ペルシア美術とミニアチュールは強く結びつくこととなった。

グーリ・アミール廟
ビービー・ハーヌム・モスク

 建築分野もサマルカンドに残された建造物で知られるペルシア建築と都市計画の技法が繁栄、タイル装飾やムカルナルという持ち送り構造を用いたドームなどが特に発展し、強度を高める二重殻ドームという構造の誕生やマドラサ(学院)の建築法が定型化された事で公共施設も量産された。

 このティムール朝の時代には文化や科学が爆発的に発展、結果、衰退していたイスラム文化を復興させる「ティムール・ルネサンス」という運動をイスラム世界全土に引き起こすこととなった。

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