カマキリ先生、お世話になっています。
新学期が始まりました。
息子の夏休みの過ごし方については、こちらの記事に書いてあります。
始業式の朝、息子はベッドから出てきませんでした。
だいたい想定内だったので、こちらも冷静に「学校に電話するから、遅刻にするか欠席にするか教えてくれる?」と尋ねると、ホワイトボードに
『明日は行くから、心のじゅんびをさせてくれ』
と書いて渡してくれました。
そして2日目。
一応、起きて朝ごはんの席についたものの、ハム1枚を食べたきり進まなくなりました。
向かい側のお姉ちゃんと、ささいなことで口論になり、そのまま泣き出して自室へ。
時間になっても起きる気配はなく、この日はとりあえず遅刻、と学校に連絡。
2時間目を過ぎた頃、息子と話をしました。
「いまの気持ちを選んでくれる?」と感情カードを渡すと、こんなのが並びました。
『学校がイヤだ・行きたくない』の中には、これだけ複雑な感情が渦巻いているんだね。
(寂しい・打ち解けない・かなしい)には、息子のどんな願いが隠れているんだろう。同級生と話が噛み合わなくてさみしいんだろうか。理解されていないと感じる場面が多いのかな。
(こわい・おびえた)は、宿題をやっていかないことで、先生に怒られると思っているのかな。漠然と、学校という場所や組織に対するおそれがあるのかも。
(落ち込んだ・絶望感)には、本人の完璧主義的なところとか、先々のことを予測する性質が関係あるのかもしれない。
あんなに毎日楽しく夏休みを謳歌していたのに、同じ家にいるという状況下でも、これだけ気持ちに差があるんだ。
それはきっと、「子どもは学校に行かなければいけない」と、本人が頑なに信じているからでしょう。
「宿題をやりたくない」と行った時もそうだけど、それ以外の選択肢を知らないせいで、たやすく絶望してしまう。物事は図鑑のように、正確無比であって欲しい彼からすると、学校は「行っても行かなくてもいい」ようなあやふやな場所ではないのだ。
今回も、「学校が嫌いなこと」はおかしなことではないよ、行かない選択もある、いやむしろ、行かない方向性で話そう、というと表情が変わりました。
親の対応としてここまでは応急処置で、この後のことを考えて言っているわけではありません。もし本当にホームスクーリングとかになったら大変そうだな、とか情報集めなきゃ、とか色々考えるわけですが、まずは本人の顔が明るくなり、お昼ごはんをちゃんと食べたことでひと安心。
担任の先生に状況を伝えようと思って電話をし、とりあえず放課後、学校にいくことにしました。
クラスで飼っている生き物(昆虫たち)の世話も、息子が大きく関わっているので、自分が休んだとして誰にお世話を頼むか、どんな世話をしたらいいか、を伝える必要があったのです。
教室に入り、真っ先に向かったのは窓際の虫コーナー。先生は待ち構えていたように、この幼虫はどうしたらいいのか、この成虫の餌はどうするか、次々と質問を投げかけてくれ、息子の目が輝きます。
本当に虫好きじゃないとしたら、たくさんの昆虫を教室で飼うなんて面倒でやりたくないはず。でも、子どもたちのために草むらでハエを捕まえて餌にしてくれたり、必要な道具を揃えたりしてくれる先生には、感謝しかありません。
夏休み中、一回り大きく育ったカマキリを手にのせてご満悦の息子。
「明日も学校にきてくれると嬉しいなー」
その言葉に返事はしなかったものの、もちろん行く、と答えているのが背中でわかりました。
ありがたかったな〜。
というわけで、『学校=昆虫=好きなこと』という図式を続けていければ、彼は学校を辞めないということがわかったわけですが、興味がいつ昆虫から離れるかわかりません。
もし、『宇宙』や『人体』とかに移ったら、どうなるんだろう?
才能はみだしっ子、とも呼ばれるギフテッド児。
この先もどんな展開が待っているのかわかりませんが、母もハラハラドキドキしつつ見守っていきたいと思います。
この話、standFMでもしています🦒