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鳥文斎栄之の《隅田川図巻》

「鳥文斎栄之」という難読の浮世絵師がいます。東京国立博物館(トーハク)の浮世絵の部屋でもたびたびその作品が展示されていて、現在(2月4日まで)もいくつかの作品が展示室に並んでいます。あ……読み方を記すのを忘れました……「ちょうぶんさい・えいし」と申します。

その中で、そろそろ改めて見たいなぁと思っていた作品が展示されていました。《隅田川図巻》です。

鳥文斎栄之(1756〜1829)《隅田川図巻》江戸時代・絹本着色
部分・以下同

鳥文斎栄之もですが、葛飾北斎など多くの浮世絵師が「隅田川」沿いの情景を、たびたび描いています。今とは異なり、江戸=東京の中心が、山手線の西側(新宿や渋谷)ではなく、その東側(いわゆる下町)だったからでしょう。その中でも特に人が集まったのが、浅草であり、その先にある吉原でした(つまりは台東区)。

今回の《隅田川図巻》も、柳橋から吉原までの道のりを描いた作品です。おそらく作者の鳥文斎栄之自身が、何度か……何度も通った道なのではないでしょうか。

とはいえ《隅田川図巻》で吉原へ遊びに行くのは恵比須、大黒天、福禄寿のエロ神様……ではなく三福神です。右から、鯛を釣ったばかりの恵比寿天、小槌を持っているのが大黒天、頭がびよ〜んとしている福禄寿です。

その三福神を吉原まで案内するのが、「大黒屋」という箱を持った色っぽい女性です。大黒屋は、実際に吉原の角で営業していました。同店は、吉原遊廓のインフラ整備や修繕を担当する代わりに、芸者の一手取締りを許されていました。

ということで、三福神は柳橋から猪牙舟(ちょきぶね)という屋根のない細長い川船に乗り込みます。と……舟を出した対岸に目をむけると、現在の墨田区側に渡し場があります。どこなんでしょう……。地名なのか名所が記されているのですが↓、ごにょごにょっとした文字なので、わたしには判読できません……。

さらに舟は進みます……と言っても、下の写真に描かれている舟に、三福神が載っているのかは分かりません。

やっと分かる場所が現れました↓。駒形堂ですね。推古天皇36年(628)に、2人の兄弟がこのあたりで網で漁をしていると、魚ではなく聖観世音菩薩がとれました……。そして上陸したのが、この川端です。それを記念して建てられたのが駒形堂で、聖観世音菩薩を本尊としているのが浅草の浅草寺です。ちなみにこの兄弟2人と、自宅にこの観音菩薩をお迎えして浅草寺の元を作った土師中知の、計3人を祀ったのが浅草神社の由来です。

今は駒形橋が架かっていますが、当時はこの駒形堂のそばに渡し場…船着き場があったそうです。それにしても、松は分かるのですが、青い花の木はなんですかね?

駒形堂

そして今の吾妻橋が見えてきました。当時、隅田川は大川と呼ばれていることの方が多かった……と聞いたことがありますが、橋の名前も「大川橋」と記されています。こちらから見て対岸には、今でこそアサヒビールの本社ビル……主に子供達からは「うんこビル」と呼ばれていますが、たしかあれは「あさひ魂」を表していたはずです。その1km先くらいにはスカイツリーがありますね。

手前の西側は浅草なので、力を入れて描くかと思いきや……そうでもないですね。

吾妻橋=大川橋

大川橋を過ぎると、手前の西側には↓待乳山(待乳山聖天)が大々的に描かれています。このすぐそばで、時代小説が好きな人であれば誰でも知っている池波正太郎さんが生まれました。この階段を降りきった場所に、生誕碑のようなものがありますね。

で、「待乳山」にふりがなをつけないと、どう読んで良いか分からない人が多いと思いますが……「まつちやま」と読みます。ただ「まつちやま」って読みづらいですよね。それでだと思いますが、発音的には「まっちやま」……「マッチ山」っぽい感じで発音する人が多いです。

待乳山?

山谷堀をのぼっていく前に、ここから対岸……東北の方を眺めると、「長」という文字だけ判読できるお堂があります。おそらく「長命寺」でしょう。なぜそう推測するかと言えば、七福神の弁財天の寺だからです。

そして先ほどの待乳山の絵を見返すと、待乳山が隅田川にせり出すようにそびえていますよね。その山を巻くように舟が1艘、川岸に近づいていくのが分かります。そのまま山谷堀を猪牙舟(ちょきぶね)で進み、そこで舟を下りた三福神は、当時は吉原堤と言われていた日本堤の上を籠に乗り換えて吉原を目指します。ここまで来れば、もう目の前です。

↑↓ 三福神が吉原堤……日本堤の上を進んでいます。日本堤は……堤(つつみ)ということで、いわゆる土堤(土手)ですね。隅田川が氾濫した時には、北側、この絵で言うと堤よりも上の方を遊水地とし、江戸の町というか主に浅草や上野あたりまで水浸しになるのを守っていました(諸説あるかと思いますが、内閣府防災情報の資料PDFには、そう記されています)。

「かよい馴れたる土手八丁」と言われていたそうなので、約870mを籠で進むことになります。

松の木の下にあるのは↓「制札」……「高札」……ですね。高札には、幕府から庶民へのお達しが記されています。

吉原堤から、吉原大門をくぐっていくと、いよいよ遊郭です。桜が満開ですけど……桜の木が若いように見えますよね。吉原遊廓では、桜の季節になると、満開の桜の木を持ってきて道の両脇に並べていたと聞いたことがあります。

それにしても、花魁(おいらん)の櫛が、ぐさぐさと髪に刺さっていますね。この複数の櫛だけで、今なら何十万とか100万円とかのコストがかかっていたかもしれません。

その花魁が進む先には、どこかの大きな店があります。↓ のれんに「〜や」と記されていますが、これは店名でしょう。江戸っ子であれば、「あぁ〜〜屋へ行ったのか」って分かったことでしょう。そう考えると、柳橋で女性が持っていた箱にも「大黒天」と記されていたので、もしかするとタイアップ広告のようなものだったかもしれません。

そして花魁が歩む先には……もう三福神がいい感じになっているようです。福禄寿さんは立ち上がって踊りはじめているし、恵比寿さんは扇子で調子を取っているようです。そんな2人を見ているのか、その先にいる店先の花魁たちを見つめているのか……すでに2人の女性にかしづかれて、にんまり笑っているのが大黒天さん。「それでも神様か……なさけない……」なんて思ってしまう一方で、「神様が率先して遊んでくれると、こっちも気楽でいいッスよ」とも思います。

ということで、鳥文斎栄之さんの《隅田川図巻》でした。

現在は「ちょっくら吉原に行ってくるわ」なんて妻に言ったら、「てめぇ〜」なんて怒られるでしょうけど、江戸時代の吉原は、今とは少し見られ方が異なっていたようですね。特に富裕層においては、今の風俗街とは全く異なり、大人の社交場のような感じだったのではないでしょうか。

鳥文斎栄之も、おそらく富裕層だったでしょう。なにせ本名を細田時富(ときとみ)という、500石取りの直参旗本です。石高だけだと、中級役人といったところですが、おじいさんは役高3000石の勘定奉行にまでなっています。しかも本人も江戸城内で小納戸役を務め、将軍徳川家治からかなり気に入られていました。その作品は将軍だけでなく天皇にも献上され、諸大名からの依頼も少なくなかったでしょう。ちなみに、ごくまれに「治部卿栄之藤原時富筆」とサインしていたそうです。

そんな旗本出身の絵師は、同じく幕府の役人だった太田南畝と仲が良かったようです。それは太田南畝の肖像画が残っていたり、鳥文斎栄之の絵に太田南畝が画賛を記していることから分かります。

ちなみに太田南畝は、幕府の役人と言っても、生まれたのは下級御家人の御徒おかちの家でした。また葛飾北斎をはじめ、北尾重政や、ライバルと言われた喜多川歌麿などとの共作もあるので、みなさん知り合いだっただろうと思われます。


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