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槍組同心の御家人、椿椿山が描く繊細な花々
<8月18日>
中国風の絵画には、あまり足を止めることはないのですが、椿椿山の『雑花果蓏図』は、見入ってしまいました。
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文化遺産オンラインでは、2人の『雑花果蓏図』が見られるのですが、なぜか椿椿山|のものは見られません。
輪郭線を用いない没骨法を主として花々や野菜果実を描いた華やかな作品。椿椿山は場k付の槍組同心で、中国の明清の着色花鳥画を慕い、緩和な花鳥画を得意としました。本作も画面上部に「仿陳道復筆意」とあることから、中国画家の陳淳(ちんじゅん)の作品に倣ったことが分かります。
椿椿山は、Wikipediaには槍組同心の御家人だが、「同心勤務をしながら、微禄を補うために画を志した。」とあります。今風に言えば「薄給を補うために、副業として絵画を描くことを志した」ということでしょう。元々絵に自信があったのか、当時は絵描きの需要がたくさんあったのか。
「谷文晁に一時入門」したそうで、「17歳の頃、同門の渡辺崋山を慕い崋山塾に入門。崋山を終生の師と」仰いだといいます。そう言えば、(2022年8月)現在、東博では椿椿山の『雑花果蓏図』の近くに、渡辺崋山や谷文晁の書が展示されています。
Wikipediaには「椿山は穏やかで誠実な人柄であり寡黙であった。友人からは『飯少なく、遊少なく、眠少なく、言葉少なく、磨墨少なく、着筆少なく、彩色少なく、酒を飲まず、女に近付かず、煙草を喫せず、故に十少と称す』と評されていた。」と記されている。
彼は、渡辺崋山が蛮社の獄で捕らえられた際には救済運動の中心として奔走し、崋山自刃後には遺族の世話をし、崋山の次男・渡辺小華に至っては、弟子として養育した後に、養女の須磨を娶らせたといいます。
そうした人柄だったこともあってか、私塾の琢華堂には、延べ373名の弟子が入門している。
風景や草花の絵も多いが、渡辺崋山や高野長英の像などの肖像画も多く描いている。副業としては、こうした肖像画の方が需要があったのかもしれませんね(あくまで想像です)。
以下は2024年12月16日に追加
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